データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)遍路行の庶民化

 ア 宥弁房真念の活動

 (ア)四国遍路みちしるべ

 貞享4年(1687年)、抖藪(とそう)(仏道の修行)の沙門(しゃもん)(僧侶)である宥弁房真念の手により、『四国邊路道指南(みちしるべ)』(以下、『道指南』と略す)と題して、148丁(ちょう)(表裏2ページが1丁)ばかりなる1冊の四国八十八ヶ所霊場案内記が上梓(じょうし)された。たなごころにのってしまうほどの小さな本でありながら、四国霊場信仰史の上でこの出版は実に画期的な事件であったといわれる。というのは、真念以前の数種の私的な巡礼日記の類をのぞけば、四国霊場の全貌(ぜんぼう)がまとまったかたちで一般の人々の目にふれるようになったのは、おそらくこれが最初だといえるからである。この書は内容の適切さと正確さで好評を博し、若干の修正を加えつつも、江戸期を通してしばしば重版されたようである(②)。
 前述のように、真念以前の四国八十八ヶ所霊場の巡拝記となると、今のところ、寛永15年(1638年)8月から11月にわたる『空性法親王四国霊場御巡行記』を初見とする。この巡行記が一般のために供されることを目的としたものでないのはいうまでもない。ついでその15年後、承応2年(1653年)、京都智積院知等庵の主、悔焉房証(澄)禅が、90日余にわたる四国巡拝の旅をし、『四国遍路日記』を残した。四国の風物・人情、札所の由来や伝説、遍路の実態等について筆のおもむくままに詳しく記した、きわめてすぐれた紀行とされているが、これとても個人的な「旅日記」でしかない。さらに貞享2年(1685年)、俳諧師大淀三千風が、四国各地の俳友たちと交流をかわしながら、120日にわたる巡拝の旅を終えた。この旅は『四国邊路海道記』として記されたが、これもまた日記という性格が強く、しかも『日本行脚文集』の一部として上梓されたのは、元禄3年(1690年)のことであった。このように四国遍路の巡行記で一般の人の目にふれる出版物は、『道指南』が出るまで皆無であった(③)。 
 民衆の経済的上昇を受けて、遍路が庶民化・一般化していこうとする社会的背景の中で本書は登場する。四国の実地で遍路を繰り返した真念が、その体験をまとめ、「聞て書、見てしるされ(た)」(『道指南』の本樹軒洪卓の序)すこぶる簡便な案内書として発刊したものである。銭100文の値の本書は評判を呼び、江戸期はもとより明治中期に及ぶまで、これ以上の遍路案内は出ることがなかったといえる。多くの版を重ねたことから、異なった版や改編も多いようである。
 ところで、この『道指南』の書誌学的考察を行った近藤喜博氏は次のような所見を述べている。

   一般に手にすることの可能な『四国遍路道指南』は、『四国遍路道しるべ』と題簽があり、(中略)内題には『四国偏礼
  道指南増補大成』とある小型本で、(中略)貞享4年版の版木を用いたものでなく、改刻され、奥付なども変っている。
  (中略)その大成本にも、明和4年版(再版)、文化4年版(再版)、文化11年版、文化12年版、天保7年版、天保7年
  別版といった数々が知られる。(中略)いずれも貞享4年版『四国偏礼道指南』の改篇本にして、貞享4年版そのままによ
  る再刻本ではない(④)。


 さらに近藤氏は、貞享4年11月の『道指南』初版本は未発見であるとして、同年同月の版本として存在する赤木文庫本と岩村本の2本について考察を加えている。それによると、赤木文庫本は初版本に対し増補改訂版であり、その赤木文庫本を刷った版木に増補改訂をしたのが岩村本となるという。その結果、『道指南』は、貞享4年11月の開版から短年月に、改訂増補を加えて初版以来3版を重ねる、驚異的需要があったことを示すとみている。さらに、改訂増補3版である岩村本の版木の減り具合から見て、相当量を刷ったものと考えられることや増補大成本以前にも刊行年不明の改刻版が出ていることから、本書は出版量の多かったことが立証されると述べている(⑤)。
 それではここで、『道指南』のもつ内容とその意義について、二つの解説を紹介する。まず、近藤喜博氏が『四国遍路研究』の中で、「(真念)の豊かな遍歴体験の上に成った『四国徧礼道指南』が、江戸期を通じての遍路のガイドブックの標準となり、長く利用されたのは自信をもってミチの大小曲直高低、道標の存否、坂の緩急から河泉の状況といった点に至るまで、懇切に示す一方、旅人にとって重大な関心事の、宿泊への案内も忘れていなかったからである。加えるに地名由来譚なども所々に挿入し、見るものをして倦しめない用意の程も心掛けている。(⑥)」と遍路人に対する行き届いた配慮と内容があるとして、その出版を高く評価している。
 次は、越智通敏氏の文献「解題」の一節である。「本書はたて15cmの小型本1冊で、四国霊場八十八か所を今日の一番から順を追って、寺の立つ場所の環境条件、本堂の向き、所在、本尊、詠歌を簡単に記したあと、次の札所に至る道案内を述べたものである。叙述はきわめて簡単で、今日のいわゆるガイドブック的なものとして作られている。その意図のとおり、そのような役割を果たし、増刷・改訂・増補が繰り返され、以後のガイドブック的出版の原型をなしたが、簡略のため内容に乏しい。(⑦)」とガイドブックとしての価値は評価したものの、内容の乏しいことを指摘している。

 (イ)『四国徧礼霊場記』と『四国徧礼功徳記』

 元禄2年(1689年)、真念と高野山奥院護摩堂に寓居する本樹軒洪卓との協力を得て、高野山の学僧雲石堂寂本は大著『四国徧礼(へんろ)霊場記(⑧)』(以下、『霊場記』と略す)全7巻を公にした。『四国邊路道指南』が実際的な道案内のガイドブックであったのに対し、この『霊場記』のほうは八十八の札所のそれぞれについて詳述することを目的とした本である。おのおのの札所における記事の内容と、札所ごとに付された克明な寺院の景観図とは、札所のありさまのみならず、当時の四国全土における仏教信仰・民衆信仰の実態を理解するために、貴重な史料となるものであった(⑨)。
 著者の寂本(1631年~1701年)は、字(あざな)は連周、雲石堂と号した。山城国深草の人、早く高野山宝光院応盛、つづいて快運に学んで内外の典籍に通じ、詩文・書画・彫刻をよくした。快運のあと宝光院を継ぎ、あと大雲院に退く。のちに家原寺に寓居した。学僧として多くの著述があり、とりわけ弘法大師を崇敬すること篤く、大師に関する逸話・伝承を多く叙述して、大師一尊化によっての四国遍路の最終的成立に強い影響を与えているという(⑩)。
 ところで、この『霊場記』執筆の動機について、寂本は本書の自序の中で、ほかならぬ真念の強い勧めによるものだったと書いている。それによると、真念は先に『道指南』を刊行し遍路人に便宜を与えたが、内容が諸刹(しょさつ)の霊験にはほとんど触れていなかった。そこで真念は、洪卓ら数名の同志とともに寺々をめぐって資料を収集し、寂本にその撰述(せんじゅつ)を依頼したという。寂本自身は四国霊場を実際には巡拝していないが、その経験豊かな真念から各種資料の提供を、また洪卓からは略図の提供を受け、二人の話を聞いてまとめたものである。寂本はいわば編著者といったほうが適当かもしれない。なお札所の絵は洪卓の略図を基にした寂本の作である。
 さらに、寂本は、この『霊場記』の編さん方針を本文に先立つ凡例で次のように明らかにしている。

   奇怪霊異の事は、仏教及び本朝神道の常談なり。若異俗膚浅の儒流、因果撥無のともがらの為にはいふにあらず。(中
  略)凡紀籍は、古を酌、来に伝へて、世の鑑とし、人の迷を解、道を弘むる器なり。故に浮説妖妄にわたる事は、いまのと
  らざる所なり(⑪)。


 すなわち学識豊かな学僧である寂本は、正統な仏教教理からはずれるものは除くという基本方針をとって叙述していたのである(⑫)。
 つづいて翌元禄3年(1680年)、今度は再び真念自身が収集した「徧礼功徳譚(くどくだん)(遍路することで神仏から受けたごりやく・めぐみの話)」27編をまとめて、上下2冊からなる『四国徧礼功徳記』(以下、『功徳記』と略す)を著した。四国霊場を自らの足で歩き続け、遍路することへの深い確信に裏付けられて、弘法大師への信仰に貫かれた特異なものであるが、彼は様々な説話・伝説を通して巡礼することの功徳を説くのである。これはまた今日もときおり見聞することのある、種々の四国遍路霊験譚の原型をなしているといえるのかもしれない(⑬)。刊行にあたって真念は、寂本を訪ね、「ふところより一巻を出して、これら俗人にしらしめは、信をおこすたよりならんかし」(『功徳記』叙)と言ったという。すなわち、寂本が先の『霊場記』でしりぞけた「遍礼の功徳、奇瑞」、「霊異」などの「浮説妖妄にわたる」説話こそが、真念にとっては一般庶民の信仰を勧めるために重要だと考えて、本書を刊行しようとしたわけである。結局、寂本は真念の要請をいれて『功徳記』の序(叙)を執筆し、さらには収録された功徳譚の幾つかに対して、自ら短評の筆をもとっているのである(⑭)。

 (ウ)遍路史における真念の果たした役割

 ところで、四国八十八ヶ所はいつ、だれがはじめたのか、今にいたるまで未だ明らかにされていない。『霊場記』の著者である寂本は、「八十八番の次第、いづれの世、誰の人の定めあへる、さだかならず。」(『霊場記』凡例)と記し、さらに真念もまた「遍礼(へんろ)所八十八ヶ所とさだめぬる事、いづれの時、たれの人といふ事さだかならず。」(『霊場記』贅録)と口裏を合わせて、不明であるとしている。
 前述のように、真念は、『道指南』の案内記で巡拝の作法を説き、八十八の札所の本尊及び巡礼歌(詠歌)等をもれなく記し、また当然のことながら道順・道のりあるいは標石、遍路宿・善根宿などの施設にいたるまでこと細かに書いた。遍路する者にとってこの本のもつ意義はまことに大きかったといわれる。白井加寿志氏は、八十八の札所と順序、及び奉唱歌すなわち詠歌さえもが真念の作事に帰せられるべきだろうとするほどである(⑮)。
 真野俊和氏は、この白井加寿志氏の「四国八十八か所は、いつの時代からか、そう権威を持たない人、人達(聖集団と俗に呼ばれる人達と思うが)によって、自然発生的に唱え出され、漸次流行して行ったのを、真念という人によってまとめられたものである。真念は思い切って阿波の霊山寺を一番とし、札所の数も、流行していた『八十八』の言葉通りに限定してしまい、それぞれに番号を付して順序を確定し、自分(自分達かも知れない)で奉唱歌も作って、四国邊路八十八所の霊場を完成したのである。八十八か所というものが最終的に確定したのは貞享四年、真念によって、つまりその著『四国邊路道指南』によってである(⑯)」との論考を、「かなり正鵠を得た推論ではないか」と高く評価している(⑰)。
 四国遍路史の上で重要視されるこの宥弁房真念とはいかなる出自を持ち、どのような宗教活動を行った僧であるのか、あまり明らかでない。ただ、彼が関係した四国遍路関係の著作物の序あるいは跋文(ばつぶん)などにその行業の一端が、わずかにうかがえるのみである。そこには、頭陀行(ずだぎょう)(仏道の修行)を専らにする僧、弘法大師にふかく帰依する遊行僧、大師の旧蹟を十数回ないし二十数度めぐる、高野山の寂本や本樹軒洪卓とのつながりから見て高野山とつながりをもつ僧、といった姿が浮かぶ。『道指南』の奥付に「大坂西浜町寺島宥弁真念房」、『功徳記』の跋に「大坂寺嶋頭陁真念」と居所の記載と署名があることを付しておく。真念の人物像についての詳細は、後述第3章の人物編に譲るとしたい。
 この四国遍路史上で不朽の功績を上げた真念について、真野俊和氏は『日本遊行宗教論』の中で、真念の宗教活動の場ないしあり方は、四国遍路を軸としてもおおよそ三つの領域から成り立つと論じている。以下、それを要約すると次のようである(⑱)。
 第1は、真言僧あるいは高野山につながる聖(ひじり)としての頭陀抖藪行の領域「真念法師、五相三密の縄牀を出て、南海千里の金場を踏れしに、多岐羊腸行脚のきもをけし、杳(はるか)に人家なくしてハ岩もる水に枕をかたむけ、遠く客舎を絶てハ、山を帯雲をしとねとせられし」(『道指南』本樹軒洪卓の序)とあって、真念の行動は、行基・空也・一遍に続く民間宗教者の伝統にのっとる、四国修行者の一人である。十分に整備された交通路・宿泊設備などまずは期待することもできなかった当時、二十数度の四国巡拝は想像を絶する苦行であったといわなければならない。
 第2は、四国霊場での遍路屋の開設、標石の設置などの仕事「四国のうちにて、遍礼人宿なく艱難せる所あり。真念是をうれへ、遍礼屋を立、其窮労をやすめしむ。」(『功徳記』木峰中宜の跋辞)とあって、この遍路屋は真念庵と名付けられ、現在無住であるが、高知県土佐清水市市野瀬に残されている。真念の『道指南』には、「○市野瀬村、さが浦より是まで八里、此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす。これよりあしずりへ七里。」とあるが、ただ先述した寛永15年の『空性法親王四国霊場御巡行記』に、「仁井田の五社を再拝し、足摺までの村里を、数も忘れて過ぎぬれば(中略)真念庵の右左、別れる道の所にあり。」と記載されていて、これが『道指南』に記されている真念庵に相違ないとすれば、さかのぼること約50年前には真念の作善行がすでに始まっていたことになる。
 もうひとつの大きな仕事は道しるべの設置であった。「又四国中まぎれ道おほくして、佗(他)邦の人岐(ちまた)にたゝずむ所毎に標石を立る事二百余石なり。」(『功徳記』の跋辞)とか、あるいは「巡礼の道すじに迷途おほきゆへに、十方の喜捨をはげまし標石を埋おくなり。東西左右のしるべ并施主の名字刻入墨せり。年月をへて文字落れバ、辺路の大徳并其わたりの村翁再治所奉仰也。」(『道指南』真念のまえがき)と記されている。すなわち「十方の喜捨」を勧進し、その施主の名を刻んで標石を設置したのである。また四国巡拝者や沿道の村人にも協力を要請している。ここに真念の勧進聖としての側面がすでにあらわれているとともに、一方勧進に応ずる人々にとっては、そのことによって善根を積むという機能を果たしている。
 第3の側面、真念にとっては、『道指南』や『功徳記』の執筆上梓ならびに『霊場記』の編さんに携わることそのものが、四国遍路における作善の行為の一環をなしていた。
 「大師八百五十年忌の春、宿願弥芽(いよいよきざ)し、四国辺路道しるべをし、うゐ参の翁、にしひがししらぬ女わらべにたよりせむと、筆を手にし、巡礼かず度(たび)して」(『道指南』真念あとがき)とあるのが、真念の執筆意図である。『道指南』は真念を本願主とし、木屋半右衛門の助縁により現実のものとされた。次の『功徳記』刊行にあたっては、助縁者はさらに広範に求められている。

 イ 交通環境の整備

 (ア)四国遍路のみちのり

 遍路史上に画期をなした真念の『道指南』をもとに遍路みちをたどると、江戸時代の初期から中期の遍路みちが跡付けられるであろう。そこには、一般庶民をいざなう交通環境の整備が徐々に進んでいく様子、それでもなおまだ、苦難がつづく遍路の旅の姿が見える。
 まずは、海路で四国へ入るところから始まる。
 『道指南』では、摂津国大坂から四国への二つのルートが紹介されている。一つは阿波の徳島行きで、海上38里で船賃は白銀2匁、渡航手続きは大坂江戸堀の阿波屋勘左衛門方でする。もう一つは讃岐の丸亀行きで、海上50里で船賃は同じく白銀2匁、手続きは大坂立売堀の丸亀屋又右衛門あるいは同藤兵衛方でするとある。なお、大坂以外の他国からの渡海はその所々で尋ねるように指示している(⑲)。
 その後、四国徧礼絵図など各種の絵図が刷られるようになると、それらの絵図には各種のコースが刷り込まれるようになる。近藤喜博氏が述べている、大坂以外のコースを整理すると次のものがあったようである(⑳)。

   ① 西国街道を下り、播州明石に船便を求めて阿波徳島へ渡る。
   ② 播州飾磨から乗船して讃岐高松または丸亀に渡る。この場合、時としては讃岐の志度浦に着船するものもあった。
   ③ 備前国からは、下津井・田ノロ・下村で船を求めて丸亀に渡る。これらの港では、主として山陰・山陽の中国筋の一
    般客を受ける関係もあって、乗船客の争奪もなかなか盛んであったようである。一方、船着場の丸亀も金毘羅の外港、
    商業地であったから、丸亀藩にあっては旅行者にも考慮を払うようになる。
   ④ 紀州方面からは、距離的に近い関係から紀州加太浦の辺から、阿波の撫養へ渡る。
   ⑤ 九州方面からは、豊後の佐賀関から伊予の八幡浜あたりへ着船していた。

 さて、四国に上陸すると、いよいよ四国を周回する遍路道である。現在、全長が約1,126kmとか、約1,146kmともいわれる遍路道(㉑)について考える。もちろん遍路道は、あるいは時代により、あるいは所により様々に変化し、定まったものではない。
 まず、澄禅は、『四国遍路日記』の巻末附記に、「世間流布ノ日記 札所八十八所 道四百八十八里河四百八十八 坂四百八十八 (㉒)」と挙げ、大淀三千風は『日本行脚文集』巻五で「凡道矩(みちのり)四百八十里、四百八十川、四百八十坂、札所八十八箇所なり、達者人(たっさひと)は四十日(よそか)ばかりには結願(けつぐわん)し侍(はべ)る(㉓)」と記しているが、これらの四百八十八里、あるいは四百八十里には、河・坂の数も同数であるところからみて、どこか四国の八十八ヶ所に語呂を合わせた感じが強いため、俗説の一種とすべきであろうとされる。
 自らの足で札所を確かめて遍路した澄禅は、その日記の終わりに、「私二云 阿波六十里半一町、土佐八十六里、伊与百廿里五町、讃岐三十七里九丁、合テ二百九十五里四十町也。阿波十日、土佐廿日難所故也、伊与廿日難所少キ故ナリ。讃岐八日小国ナレドモ札所多故也。(㉔)」と記している。
 また真念は『道指南』のなかで、「今ハ劣根、僅二八十八ヶの札所計巡拝し、往還の大道に手を拱(こまねく)御世なれハ、三百有余里の道のりとなりぬ」と述べて、次のように「三百有余里」の内訳を示している。

   四箇国総八十八箇
    内二十三箇所 阿州 道法(のり)五十七里半三町 四十八町一里
    同一十六箇所 土州 道法九十一里半      五十町一里
    同二十六箇所 予州 道法百十九里半      三十六町一里
    同二十三箇所 讃岐 道法三十六里五町     三十六町一里
   道灋(法)都三百四里半余(㉕)

 そもそも当時は、距離の正確な計測がなされていたわけではない。この遍路道の里程について解説した近藤喜博氏は、当時は国々によって里程の単位の不統一があることや、遍路関係の書物が真念の記述した里程をそのまま踏襲して記載するなどしていることを理由として、記された里程が極めて不正確であることを次のように指摘している。

   1里の単位によって全道法が変わってくるが、澄禅が「私二云」とて示している295里40町は、どちらかというと、36
  町1里の単位に近い里程のように思われる。
   一方、幕末の嘉永7年、京都の御用鋳物師長谷川伊勢大禄は、札所案内として『四国八十八ヶ所順拝心得書並道中記』
  (自家版)なる冊子を版行しているが、(中略)巻末に「みちのりは、あハととさ八五十一丁一り、いよとさぬきは、三十
  六丁一り、道のりを三十六町にひきならし、四百弐十四里半となるなり。」とて、36丁1里によって全里程を計算してい
  る。(中略)国によって、1里の単位を異にする全行程三百有余里が、無条件に通行していた。
   これは真念の『四国徧礼道指南』による影響とすべく、だからして一枚刷りの遍路案内図の如きは、ほとんど三百四
  (余)里を踏襲して、この道法の上に、札所八十八の霊場が布置されている(㉖)。

  (イ)交通施設の整備

 遍路道の往来に欠かせぬものに丁(町)石や標石がある。もっとも早いものとしては真念の建てたものがある。前述のように、真念は『道指南』の序で、遍路道のここかしこに勧進によって標石を置いたと述べ、その数は「二百余石」(『功徳記』中宜の跋)とある。すなわち、『道指南』には、「標石有」とか、「しるし石有」などの表記が散見されるわけである。こうした標石やしるし石は、その後の遍路たちや地域の人々によって、今日にいたるまで維持、整備されていくのである。
 次に、かつて澄禅の旅でもっとも難儀したものとして繰り返し述べられている河川の渡渉については、その後も遍路道の難儀を象徴するもののようである。真念の『道指南』では、単に「川有」、「大河有、舟わたし」などの表記にとどまっている。以後の遍路紀行記等には、河川渡渉の不便を訴える記事がないことから、漸次解決に向かったことは疑いないと思われる。そして、この後の遍路には、川の渡し賃が旅の需用費目の一つになってくるようである。
 時代は下がるが、寛政7年(1795年)の伊予国上野村庄屋玉井元之進の遍路では、阿波・土佐のみで河川の舟渡しは13か所以上あった。また、『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』に、徳島の阿南の人で九皋主人という者が、寛政12年(1800年)3月20日に出発してから帰着した5月3日(閏月あり、73日間の遍路)までの間に通過した河の名と渡し賃をともに記している。これを抽出して道順に掲げて見ると、「那賀川船渡し十五文宛、大川船渡し四文宛、大川船渡し十三文宛、安田川舟わたし十五文宛、沖川船渡し三もん宛、物井川船渡し五文宛、播枝村川船渡し、樽見渡し渡し舟四もん宛、江川川渡し二文宛、浦戸船渡し三もん宛、西諸木村川船渡し三もん宛、仁淀川船渡し八もん宛、井関村小川船渡し弐もんづつ、猪の尻川渡し舟四もん宛、猪之尻村より横浪村まで海上三里船二乗事、十一人より十五人迄よし、其余ハ乗べからず、壱艘借切七百文、壱人前六十四もん宛也、松葉川谷大河也、船渡し二文宛、四万十川大河也、船渡し廿文宛、小川引船渡し三文宛、ゑの村の川船渡し三文宛、牛の瀬川船渡し三文宛、大洲城際の川船渡し壱文宛(㉗)」といったもので、仁淀川・四万十川の大河をはじめとして、土佐にはとくに河流江海の船渡しが多くて、例え乞食遍路であっても無一文では通ることができなかったことが分かる(㉘)。なお、瀬戸内海に面した地方については、難路も少なく、大河もなかった関係で難儀をしたとの記録はあまり見られない。承応年間に遍路した澄禅の日記と比べると、河川の渡渉問題は解決されていたようで、ここでは渡し賃の料金体系を含めて河川渡渉の制度らしきものが成立していることをうかがわせる。
 さらに、道筋で提供される宿やその他の施設について、『道指南』に記されているものを拾い出してみると、次のようなことを知ることができる。

   ① 前述のように、「遍路いたわりとして国主が建てるとある」うちこし寺・円頓密寺・清色寺の3寺がある。
   ② 「宿かす者」すなわち接待宿は、十六番観音寺の条の「○かうの村、(中略)おゑつか弥三右衛門遍路をいたはりや
    どかす(㉙)。」を皮切りに二十数件あって、各地に案内されている。
   ③ 「仮泊のできる大師堂等」としては、「○でうりんじ村、地蔵堂有。(中略)当村七郎兵衛再興し、(中略)やどを
    ほどこす。」、「○市野瀬村、(中略)此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす。」、「○はらわら、あみだ堂
    有。やどかす。」、「○大瀬村、大師堂、雲林山寿松庵是有。此ところにすまいする曽根の清左衛門、(中略)辺ろの
    人を憩しむる所とせり。」、「(前略)桜休場の茶屋。大師堂、是堂ハ此村の長右衛門こんりゅうしてやどをほどこ
    す。」などがある(㉚)。
   ④ 「茶屋」は9か所ほど記載があり、名のごとく茶屋であるらしい。
   ⑤ 「大師堂」は上記のものを除き、20か所の記載がある。
   ⑥ このほかに、「薬師堂」、「観音堂」、「不動堂」、「地蔵堂」、「あみだ堂」、「天狗堂」、「毘沙門堂」、「ゑ
    んま堂」、「大日堂」などや、神社の名などが多数記載されている。

 このうち⑤⑥については、ただ堂宇の名称と所在の村名があるのみであるが、ガイドブックとしての性格で考えると、休息所あるいは仮泊の宿所として利用できることを示しているのではないかと思われる。これについては後述する。
 ところで四国霊場を特徴付けるものの一つに大師堂がある。近藤喜博氏は、この大師堂について次のような所論を展開している(㉛)。
 まず札所の大師堂について、『霊場記』の挿図に、大師堂ないしは御影堂の描かれている札所を調べると、33か所にあって全札所の半数にも達していない。元禄初年に、本堂と大師堂の組み合わせを持たなかった55か所の札所は、それ以後漸次、大師堂を加えてきたと考えられ、寛政年間の『四国遍礼名所図会』では逆に大師堂の見えない札所は4か所のみとなっているという。さらに、近藤氏は続けて、大師堂の調査は末完了であるとしながら、遍路道に設けられていた大師堂やその他の大師堂が、後に札所の寺院構成に組み込まれて生き続けるとか、あるいは時代の流れのうちに消滅するとか、遍路屋を兼ねたものになるとかなどと、こうした大師堂の行方を推察している。
 次に、作善行為にはさまざまあるが、遍路道の整備に関するものを掲げてみる。早いものでは、澄禅の日記の中に、「(雲辺寺の条)此山坂五十町ガ間ハ深山ニテ、草木生茂リテ笠モ荷俵モタマラズ引破リシヲ、当年ノ夏、土佐ノ国神ノ峰ノ麓ヨリ出タル辺路ノ俗士、此道ノ様ヲ見テ、此分ニテハ修行ノ者ノ労身也ト云テ、此寺二数日逗留シテ道ノ左右ヲ三尺宛只独りニテ切アケタリ。(㉜)」とあって、土佐の俗人遍路が独りで道の整備を行ったことが記されている。また道ではないが、同じ日記の弥谷寺の条に、八幡山三角寺仏院の御影堂の再建をした但馬国銀山の米原源斎の話(㉝)もある。さらに、『道指南』では、土佐かわゐ村の条には、引き舟があって、これはねねざき村の善六が遍路のために作り置く(㉞)とあり、また、土佐ゑの村の条には、川の水増しの時には庄屋と村翁が遍路を助け渡す(㉟)とある。
 さらに『道指南』の改訂増補第二版本には、在地民の道普請の話がある。土佐月山から寺山までの7里半、ヒメノヰ村の庄屋喜左衛門が中心になって村人と一緒に、曲折のミチを直線コースに付け替えたという話である。(㊱)真念自身の作善については前述の通りである。
 こうして遍路道は難儀といいながらも、漸次改善に向かっていっていたことは事実であり、交通路の整備は遍路行を次第に容易にし、遍路する人たちの拡大に寄与していったものとみることができる。