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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)四国遍路の形成

 ア 四国辺路から四国遍路へ

 四国遍路の起源について、その前史とも言える要素については、すでに第1節第1項で各論者の論考を整理してきた。平安末期成立の説話集や歌謡集には、四国の海辺や山間部に修行する聖と呼ばれた宗教者の活動が認められ、彼らが「四国辺路・辺地(へじ)」とも「辺土(へんど)」とも呼ばれるミチを廻り歩いていたことが推測されている。
 しかしながら、今日のような形態の四国遍路が歴史的にいつごろから始まったかということについては必ずしも明らかになっていない。新城常三氏が「一般社会の参詣を主眼にする限り、中世は未だ四国遍路の黎明期であったといえよう。(①)」と指摘しているように、少なくとも現在のような形態で遍路行が行われるようになるのは、ほぼ江戸期に入ってからというのが大方の見方となっている。(詳細は第2節で記述)
 弘安3年(1280年)より数年ほど前ごろのものであろうとみられる『醍醐寺文書』には、頼遍という人物が修験の習いとして、山嶽抖擻(とそう)や千日籠山(ろうざん)などのほか四国遍路・三十三所諸国巡礼(三十三ヶ所の西国巡礼のこと)をしたとあるが、この記述について新城常三氏は、「この場合の四国邊路は、単に四国の場所等を示すこれまでの用法と異なり、四国を邊路するという行動を示すもので、この後の四国邊路と全く同じ用例での初見である。へんろは江戸時代以降遍路と書くのが多く、今日まで続いているが、室町時代にはむしろ邊=辺路と書く例が多い。(②)」と述べている。
 また五来重氏も「江戸時代のごく初めは辺路も遍路も使っています。元禄年間(1688年~1704年)ごろに『遍路』に変わっているので、遍路という文字の使い方は非常に新しいわけです。ただ、読み方としては室町時代にすでに辺路を『へんろ』と読んでいたのではないかと思います。(③)」と述べている。
 以上の論考から、すでに室町時代には、今日の遍路する行為を意味して、邊路=辺路という言葉が使われ、「へんろ」と呼んでいたことが推測されるのである。

 イ 落書に見られる四国遍路

 四国遍路が「四国の辺路」から「遍路」へと移行していく時期や過程を推測する資料の一つとして、先に『醍醐寺文書』の例を示したが、各札所寺院などに残る落書(楽書)にもそれを推測する資料が残されている。
 五来重氏は、「松山市内の浄土寺の厨子(ずし)(写真1-1-16,1-1-17)には大永5年(1525年)の落書がありますが、『三川同行□□辺路』と書かれています。同じ浄土寺の享禄4年(1531年)の落書には『四国辺路同行四人川内□津住□覚円廿二歳』と書かれていますが、『□津』は摂津だろうと思います。さらに『四国中辺路□善冊□辺路同行五人のうち阿刕名東住人□大永七年七月六日』『書写山泉俊長盛□□大永七年七月吉日、なむ大師辺照金剛』という落書があります。熊野でも海岸から山の中に入っていくのを中辺路と呼ぶように、このころになると山の中で修行をするのを中辺路と呼んでいます。ここでは『辺照』と書いているので、遍という字と辺という字の混同が続いているわけです。(④)」と述べている。
 新城常三氏は、「八十番札所讃岐国分寺本堂の永正10年(1513年)の落書には、四国中辺路とあり、同寺本尊落書にも四州中辺路とある。さらに四十九番伊予浄土寺の落書の中にも、大永中『…四国中辺路… 』とある。しかし同寺落書には同じころ、遍路・四国遍路も見られ、辺(邊)路・遍路が共用されている。さらに、天文10年(1541年)の安芸大願寺尊海の起請文には、四国邊路とある。その後も辺路・邊路を用いる例は少なくない。同じく天正前後と覚しい『勝尾寺文書』2月7日寿慶宛某書状に、二ヵ所にわたって辺路とある。以上のごとく、もとは邊路=辺路と書く場合が多いようである。平安・鎌倉初期の邊地との関係を考えれば、へんろは遍路より、むしろ邊路・辺路に直接結びつくのである。弘安前後、ここに後世の四国辺路と全く同じ用例が初めて見られるのであり、この前後後世のへんろの形態は一段と前進したと看るべきである。(⑤)」と述べている。
 また、こうした一連の落書によって、遍照一尊化の傾向や札所の形成も推測することが可能であるという。
 近藤喜博氏は「松山の浄土寺本堂の厨子の墨書に『南無大師遍照金剛守護』とか『金剛峯寺谷上惣職』(大永7、同8年のもの)、讃岐の国分寺の丈六の本尊千手観音立像にも『南無大師遍照金剛』(大永8年ごろ)との落書が読みとれると考えると、資料としては少ないが、室町期、既に四国霊場が、弘法大師信仰とその伝説の融合の中に、漸く真言宗系の、しかも遍照一尊の色彩を濃化しつつあったことは、認めなければならぬようである。善通寺やその近辺の関係寺院、空海関係遺跡の寺院の大師信仰は多言を要しないが、こうした傾向が、札所八十八所の固定化と共に、遍照一尊としての弘法大師との結合を強力なものとして行ったのは肯ける。(⑥)」と述べている。
 越智通敏氏は、「讃岐の国分寺にある永正10年(1523年)の落書に『四国中辺路』とあり、その他の落書に『南無大師遍照金剛』というのがこの時期にほとんど出てくる。これは大師一尊化の傾向をはっきりと示しているということである。(⑦)」と述べている。
 新城常三氏は「八十番讃岐国分寺本堂には、永正10年・大永8年・天文7年・弘治3年等の遍路の落書がある。またほかに同じく『南無大師遍照金剛』の8字の落書がみられるが、これはいうまでもなく弘法大師の名号で、現在なお遍路が道中口にする唱文で、当時すでに遍路の間に、この唱文の慣習が成立していたかのようである。このような中にも遍路の形態が、しだいに整備しつつあることが、偲ばれるであろう。つぎに四十九番伊予浄土寺の本尊厨子にも、これと前後した大永・享禄期の遍路の落書若干が発見されており、浄土寺が、さきの国分寺と共に当時すでに札所であることは疑いない。そのほか、五十一番伊予石手寺の護摩堂にも、永禄11年遍路の落書が残されている。このように室町末までにはいくつかの札所の成立が跡づけられるのであり、八十八ヶ所はこのころまでには、確実にでき上がっていたのであろう。(⑧)」と述べている。
 『愛媛県史 学問・宗教』によると、札所本堂などにある落書のたぐいで、確認されている最も古いものは、六十九番観音寺にある貞和3年(1347年)の常州下妻の某阿闍梨(あじゃり)の落書であるとされている。下って、八十番国分寺本堂にある永正10年(1513年)の落書に、「四国中辺路、同行只二人納申候」とある。「同行二人」というのはこれが初見とみられる。このほかに、大永8年(1528年)、天文7年(1538年)、弘治3年(1557年)の落書があり、大永8年の本尊千手観音の左腰下の落書には「四国中辺路同行三人」、その他に「南無大師遍照金剛」というのがあるから、これによって大師一尊化の傾向をうかがい知ることもできるとある(⑨)。
 さらに落書は、遠隔各地からの「へんろ」(辺路、遍路)の様子を資料的に裏付けることもできる。新城常三氏は次のように述べ、遍路の数やその範囲が拡大していった様子を指摘している。

   六十九番讃岐観音寺には、「常州下妻庄造各□」弁阿闍梨口貞和三年三月廿五日」との落書の墨書銘がある。南北朝時
  代、すでにはるかに常陸の僧侶が同寺を訪ねている。おそらく四国遍路の道中であろう。さらに、鹿児島県川内市中村町戸
  田観音堂の「観音像裏壁板墨書」である。応永13年11月6日、「奉納大乗妙典六十六部、日本四国遍路錫伏(杖)□仏修
  業□」とある。さきの『醍醐寺文書』についで、四国遍路の明文の古いものとして真に注目すべきである(⑩)。(中略)
   浄土寺落書によれば、大永・亨禄のころ、遍路の出身地は、阿波名東郡・播磨書写山・紀伊高野山のほか、さらに越前一
  乗谷及び三河等の東国にまで及んでいる。さらに讃岐国分寺には、同じく書写山・高野山が見られ、さらに元亀前後の土佐
  一の宮落書には、山城・備中等が誌され、その前後の『勝尾寺文書』にも河内以東からの遍路が見られる。かくのごとく、
  室町後・末期になれば、遠隔各地からの遍路を史料的に裏づけることができる(⑪)。

 以上の論考をまとめると、各所に残る落書で次のようなことが推測される。
 現在資料として取り上げられる代表的な落書には、八十番国分寺本堂にある永正10年(1513年)の落書と四十九番浄土寺の本尊厨子の落書があり、ともに「四国中辺路」という言葉が見られる。その他、室町時代の落書には「四国辺路」とか「四国中遍路」とかの言葉もあり、「辺」と「遍」の字の混同も見られる。このことから、平安・鎌倉初期の「四国の辺地」と称していた遊行は、室町時代には「四国辺路」と呼称する巡礼へと移行し、用字も「辺路」と「遍路」との混用期間に入っていることがうかがえる。
 また、落書に残る「同行二人」や「南無大師遍照金剛」という言葉から、室町時代には、明らかに遍照一尊化の傾向を強めていたことがうかがえ、讃岐の八十番国分寺や伊予の四十九番浄土寺などのいくつかの寺社が、札所として人々の信仰を集めていたことが推察され、さらに遠隔各地から訪れる巡礼者の数や範囲も拡大していたことがうかがえるのである。

<注>
①新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』 P490 1988
②前出注① P484
③五来重『四国遍路の寺 上』 P20 1996
④前出注③ P20~21
⑤前出注① P484
⑥近藤喜博『四国遍路』 P152 1971
⑦越智通敏「霊場信仰の重層性と八十八ヵ所の成立」(『空海一人 その軌跡』 P95 1987)
⑧前出注① P486~487
⑨愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 学問・宗教』 P713~714 1985
⑩前出注① P485
⑪前出注① P485 ・ 487

写真1-1-16 四十九番浄土寺の本堂

写真1-1-16 四十九番浄土寺の本堂

平成13年2月撮影

写真1-1-17 浄土寺本堂の厨子

写真1-1-17 浄土寺本堂の厨子

平成13年2月撮影