データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)弘法大師信仰の普及

 ア 高野聖の活動

 四国遍路は、どのようにして弘法大師信仰一色に塗りつぶされていったのであろうか。弘法大師信仰が形成され、中央から地方へと次第に普及していく過程の中で、高野聖(こうやひじり)と称する高野山に所属する聖集団が、弘法大師信仰の普及に大きな役割を果たしたことは間違いない事実であるという。
 聖とはどのような宗教者を指すのだろうか。五来重氏の所説を要約すると次のようである。
 聖はおそらく原始宗教者の『日知り』から名づけられたものであるが、『ひじり』はきわめて原始的な宗教者一般の名称であったと考えてよい。このような宗教者には、呪力(じゅりょく)を身につけるための山林修行と、身の汚れをはらうための苦行があった。これが山林に隠遁(いんとん)する聖の隠遁性と苦修練行(くじゅうれんぎょう)の苦行性になったのである。また原始宗教では死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路を続けると考えていたので、これを生前に果たしておこうという巡礼が、聖の回遊性となっている。また、隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力(じゅげんりょく)は、予言・治病・鎮魂などの呪術に用いられるので、聖には呪術性があることになる。その他に、聖には妻帯や生産などの世俗生活を営む世俗性や、集団をなして作善をする集団性、寺や仏像をつくるための勧進をする勧進性や勧進の手段として行う説経や祭文などの語り物と、絵解きと踊り念仏や念仏狂言などの唱導を行う唱導性をもっていたのである。こうして、原始宗教者としての聖は、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつ者として歴史に現れてくる。そして、高野聖も決して例外ではなく、これらの八つの特性をそなえて高野山の歴史を形づくり、日本の庶民仏教の歴史に大きな足跡を残したのである(①)。
 聖は、四国遍路成立以前、古代から存在していた。谷口廣之氏が、「四国は、霊山信仰や補陀落信仰などの重層する信仰の地であり、遊行する聖たちの頭陀行の地であった。四国遍路成立以前に四国の地は彼らによって踏み固められていったのであった。しかしそれぞれの信仰の要素は多様であって、まだ弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではない。(②)」と述べているように、かつて四国の地を遊行した聖たちは、それぞれの信仰に基づいた修行をしており、四国の地は、当初から弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではなかった。
 この遊行する聖たちのうちで、高野聖は、平安中期以降に登場するとされている。その発祥においては、道心ある隠遁者が多く、古代から存在した聖一般の世俗性を有して半僧半俗の生活をしていたといえよう。しかし正暦5年(994年)に高野山が大火に見舞われると、その復興を図るために僧定誉(じょうよ)が集団を組織して、高野聖という集団が始まったといわれている。その後、教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)によって真言念仏の教理を有する小田原聖・往生院谷聖の両集団が組織化され、中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)、禅的信仰を加味した萱堂(かやどう)聖、時宗聖集団を形成した千手院谷聖の諸集団が活発な活動を行ったという(③)。
 高野聖の主な活動は、勧進であった。かつて古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園によって維持されていた。しかし平安中期以後の律令体制の崩壊と荘園の変質に直面した寺院は、伽藍(がらん)や法会(ほうえ)の維持、僧供料の獲得のために、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の集積を必要とするようになった。こうしたなかで聖は勧進にかかわり、仏教教団の上部構造である学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を、日本仏教の歴史のなかで果たしたのである(④)。
 また高野聖は、各地の唱導(宗教的説話の説教)によって納骨参詣を誘引し、回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運んだ。さらに納骨(写真1-1-12)と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供した。このように高野聖は、高野山で宗教よりは生活をつかさどる役割を主に担い、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等によって高野山の台所を支える階級となっていった(⑤)。
 しかし、こうした高野聖の活動は、庶民との密接なかかわりによって成り立つものであったので、彼らは、足まめな行脚回国と人集めの唱導や芸能も行わねばならず、そのために次第に庶民に迎合して世俗化することもやむを得ぬことであった。そして、高野聖のこうした世俗化は「非事吏(ひじり)」などと書かれて卑しめられたり、宿借聖(やどかりひじり)とか夜道怪(やどうかい)などと呼ばれて嫌われたり、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」とか「人のおかた(妻女)とる高野聖」といわれたりして、人々から俗悪な下僧と卑しめられるようになっていった。
 だが、こうした高野聖の世俗性は、高野山の堂塔・院坊の再興と修復、仏像の造立と法会の維持、あるいは山僧の資糧などを勧進によって支えるために、民衆に接触する以上、避けがたいものであった。しかしこれが行き過ぎてくると、やがて呉服聖といわれるような商行為や隠密(おんみつ)まではたらくようになり、完全に末期的症状となっていった。結局、高野聖のこうした世俗性が俗悪化につながって、中世末期には世間の指弾を受けるまでに堕落し高野聖は消滅していくのである。さらに高野聖が消滅していくには別の理由もあった。それは真言密教として出発した高野山で、この一類は浄土往生と念仏信仰を根本信条としたことであった(⑥)。
 鎌倉時代の高野山は、念仏聖が群がり集まり、高野聖と念仏がすべてを風靡(ふうび)した観があったが、南北朝期の動乱のなかでその反動の気運が醸成されていき、室町時代を通じて真言密教の巻き返しが着々と進んでいった。室町時代も半ば、15世紀末ごろから、自発的に高野聖の真言帰人が行われるようになったが、慶長11年(1606年)年に将軍の台命として、全高野聖は時宗を改めて真言に帰人し、四度加行(しどけぎょう)(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡素な真言宗の入信儀式)を受けるよう命令され、ここに高野聖の歴史は終止符がうたれることになるのである(⑦)。
 以上、五来重氏の著作『増補 高野聖』を中心に高野聖の活動の歴史を概観してきたが、高野聖が、勧進や唱導、納骨等のために回国し、庶民との密接な交流を図ったことは、弘法大師信仰の普及において極めて大きな役割を果たすことになったと思われる。
 はたしてこうした高野聖は、弘法大師信仰の普及にどのような役割を果たし、どのような影響を及ぼしたのであろうか。以下、各論者の論考を整理しておきたい。
 五来重氏は次のように述べ、高野聖の宗教宗派にこだわらない信仰上のおおらかさが、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたと指摘している。

   高野聖は、奈良時代以来、庶民信仰を管理した民間宗教者としての聖を追求するなかで姿をあらわしたものであった。こ
  れらの聖は念仏もすれば真言もとなえ、法華経を読み大般若経を転読し、神祗を崇拝し苦行もするという、宗教宗派にこだ
  わらないおおらかな宗教者であった。
   実に弘法大師信仰に宗派がないということは、このような精神風土の上に成立したものであることがわかる。それは弘法
  大師の偉大さとして説かれるけれども、弘法大師を偉大ならしめるのは庶民の精神構造であった。これを知らなければ高野
  山がなぜ宗派を越えた日本総菩提所になったのか、また弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて高く信仰されるのか、という
  疑問を解くことはできない(⑧)。

 また真野俊和氏は次のように述べ、高野聖の活動を通して四国霊場の遍照一尊化という風潮が形成され、さらに中世高野聖による大師信仰の普及を通して四国遍路の宗教思想が形づくられて全国に普及していったはずだと指摘している。

   さまざまな形態の弘法大師信仰を各地にもち伝えたひとつの大きな勢力に、12世紀頃からあらわれて中世末頃まではな
  ばなしい活躍をした高野聖がある。中世の高野聖たちはまた、高野山そのものが現世の浄土であり、人は死後そこに骨を納
  めることによって仏となるという信仰をもって民衆の心の内に入りこみ、高野山納骨という習俗を全国にひろめた。弘法大
  師誕生の地である四国はこんな高野聖にとっては最も活躍しやすい場でもあったろう。四国霊場の遍照一尊化という風潮
  も、以上の歴史的文脈のなかでとらえねばならない。そしてまた中世期高野聖の活動による大師信仰の普及をとおして、四
  国遍路の宗教思想は形づくられ、また全国に普及していったはずだ。なぜなら弥勒下生思想のもとでの不死・死滅の大師、
  復活する大師、そして霊能高く偉大な奇跡を行いうる存在としての大師のイメージは、現実の「同行二人」の信仰のもとに
  彼らとともに巡歴して苦難を分がちあい、かつさまざまな霊験を遍路たちにもたらす大師像と、その輪郭はあまりにもくっ
  きりと重なりあってくるからである。ここに現れる、影のごとくにして遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴す
  る大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかをさし示すことは難しいが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出
  現した観念であるにちがいない(⑨)。

 さらに谷口廣之氏は、「現在でも八十八ヶ所を巡拝した遍路たちは御礼参りと称して高野山に参詣するが、高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたのであろう。もちろん四国を遊行した聖は高野聖だけでなく、六十六部といった法華経行者や修験の徒などその種類は多い。しかし遍照一尊化への四国霊場の統一は彼らの活躍を抜きに考えられないだろう。(⑩)」と述べている。
 以上、各論者の論考を抜粋してみたが、それを整理すると、高野聖の宗教宗派にこだわらない多様な活動が、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたことは事実であり、こうした高野聖の地道な活動を通して、弘法大師信仰は次第に地方の隅々にまで浸透していき、四国霊場の遍照一尊化の風潮が強められていったと考えられるのである。

 イ 四国を巡った僧侶たち

 高野聖が弘法大師信仰の伝導者であると同時に、遍路の紹介者ともなったであろうことはすでに述べてきた。しかし、弘法大師信仰を普及させた者は、必ずしも高野聖だけではなかった。名のある宗教者や無名の人々も弘法大師信仰の普及に何らかのかかわりを持っていたと考えられるのである。
 とりわけ四国は、弘法大師ゆかりの地であり、その故をもって人々を引き付けもした。しかし四国の地は、自然的・交通的条件が厳しく、容易に人々を寄せ付けるものではなかった。
 新城常三氏が「鎌倉時代から引き続き南北朝期から室町期にかけても、遍路のほとんどが僧侶・山伏であった。(中略)室町期の遍路資料を集積しても、僧侶に比して俗家の数ははるかに少ない。(⑪)」と指摘するように、江戸時代以前までは、厳しい条件の伴う四国では、強い信仰心に裏付けられた僧侶たちが主に旅する人であったといえよう。
 さらに新城常三氏は、四国を旅した人物として、「大師への信仰は、真言宗僧において最も敦いから、四国の聖地を巡歴する僧も真言関係者が多かったであろう。後世元禄三年刊『四国遍礼功徳記』が、一説として空海弟子高雄山真済(しんぜい)を、四国遍路の創始者に擬定しているのは、信拠に足りないとしても、そこには、真言宗僧と、四国遍路との親近関係が根底となっている。『今昔物語集』の僧の宗派は不明であるが、讃岐曼荼羅寺を訪れた善範は、真言宗本山東寺に関係ある僧であり、西行も高野山に関係深く、四国修行の前後高野山に住している。高野山金剛峯寺と伝法院との間の紛争により、仁治四年讃岐に流され、守護被官宇多津の橘高能に預けられた道範は、流寓間もなく善通寺に参詣したほか、大師聖跡の諸所を巡礼している。(⑫)」と述べ、さらに室町時代の道興や南北朝時代の高野山僧賢重なども挙げている。
 要するに、江戸時代以前において主に四国の地を訪れた者は、強い信仰心を有する僧侶が主体であり、特に弘法大師信仰の関係から真言宗の憎が多かったと指摘している。
 武田明氏は、四国を訪れた僧の代表として、空也、西行、一遍の三人を例示している(⑬)。
 越智通敏氏は、真済、道範、西行、それに真言僧以外の人物として、空也、法然、一遍などを挙げ、これらの人物が高野聖とともに四国霊場信仰を広めていったと指摘している(⑭)。
 真言宗の僧である真済(800年~860年)・善範(1058年~不明)・道範(1183年~1252年)などについては、各論者も四国との関係を指摘するものの、記述が少なく詳細はわからない。
 『愛媛県史 学問・宗教』によると、善範は讃岐曼荼羅寺の再建を志したというが(平安遺文)、四国を回国したかどうかはわからないとしている。また高野山金剛峯寺と伝法寺との紛争により、仁治4年(1243年)讃岐に流された学侶方の道範は、『南海流浪記』によると、大師の命日に善通寺に詣でたほか、曼荼羅寺・出釈迦寺など大師の聖跡を巡礼し、誕生所では如法経を奉納、御影堂に通夜するなどして大師を敬慕、7年間の流寓生活のうちに、荒廃した誕生院の再興を願って勧進したとある(⑮)。
 このように、真言宗の僧侶たちは、弘法大師ゆかりの地である四国をしばしば訪れ、弘法大師信仰の普及に何らかの寄与をしたことは想像できる。

 ウ 遍路にかかわった僧たち

 以上、各論者の指摘する四国を訪れた僧を挙げてみたが、それらの僧のうちで、特に著名な僧を幾人か選び、四国遍路とのかかわりについて簡単に整理しておきたい。

 西行
 高野聖に属し真言宗の僧でもある西行(1118~90年)は、歌人として有名である。俗名を佐藤義清と称し、もともとは北面の武士として鳥羽上皇に仕えていたが、23歳の時に無常を感じて出家した。彼は仏道修行をする傍ら歌を楽しみ、高野山から四国・九州・奥州など日本各地を旅した。
 この西行について近藤喜博氏は、「四国における彼は、主として讃岐・伊予を廻ったようであるが、こうした巡行の形は、後々の遍路にあっては『一国マイリ』といわれる型に類するであろう。(⑯)」と指摘している。また武田明氏は「西行は『山家集(さんかしゅう)』によれば、白峰寺及び善通寺周辺を歩いているにすぎないが、やはり後の四国霊場のいくつかを巡歴したということになるのである。(⑰)」と、西行と四国とのかかわりを述べている。
 『愛媛県史 学問・宗教』によると、西行は、保元の乱に破れて讃岐の配所で長寛2年(1164年)に崩御された崇徳天皇の霊を弔うため、仁安2年(1167年)に讃岐に下り、曼陀羅寺の近くに草庵を結び、讃岐の寺々を巡歴したが、伊予まで足をのばしたという伝承は確かでないとしている(⑱)。

 空也
 空也(903年~972年)は、空也念仏ともいわれた踊念仏・鉢叩(はちたたき)の祖と仰がれた人物で、弥陀(みだ)念仏を唱えながら諸国を巡歴し、路を開き、無縁の屍体(したい)を葬り、橋をかけ井戸を掘るなど伝道教化につとめた。
 空也について近藤喜博氏は、『空也上人絵詞伝』には、空也は四国に出向いたことになっている。松山市の浄土寺に、空也上人木像(重要文化財)が安置されているのは、その先蹤(せんしょう)として注目すべきものがあろうと述べている(⑲)。
 また武田明氏は、「彼は諸国巡錫(じゅんしゃく)の途次に四国へ渡り、浄土寺(第四十九番)に三年間も滞在して念仏を弘められたという。今も空也の像が浄土寺に残っているが、空也は三年間の滞在中に、この付近の諸寺にも足をとどめたことは考えられる。(⑳)」と述べ、空也と浄土寺との関係を指摘している。

 法然
 法然(1133年~1212年)は、源空とも称し、浄土宗の開祖である。比叡山に天台宗を学び、のちに専修念仏による往生を説いた。彼の教えは広く貴族・武士・一般庶民の帰依を受けて教勢が盛んになったが、やがて南都(奈良興福寺)・北嶺(比叡山延暦寺)の反感と妬(ねた)みを買い、専修念仏は禁止され、彼は土佐に流されのちに流罪の地を讃岐に移されたが、その後免罪となって京都で没した。
 この法然について越智通敏氏は、法然は承元3年(1207年)土佐の国に流謫(るたく)になっていたが、実際には讃岐に留まり、その弟子聖光(しょうこう)は伊予に布教したようで、中予には明らかに布教の跡がある(㉑)と述べ、法然と四国とのかかわりを指摘している。

 一遍
 一遍(1239~89年)は、伊予出身で時宗の開祖である。はじめ浄土宗を学んで専修念仏に打ち込んだが、やがて熊野に参籠(さんろう)して念仏三昧(ざんまい)の日々を送るうちに霊験を得て、「南無阿弥陀仏」という札を配ることによってのみ人は往生できると信ずるようになった。こうして彼は諸国を廻る賦算(ふさん)(札を配ること)の旅に出て、故郷の地である四国にも幾度か訪れている。
 武田明氏は、「一遍上人は、伊予の太守河野氏の一族であり、今の松山市の近郊に生まれている。日本中を歩いているが、四国の中では伊予・讃岐・阿波までは歩いているようで、土佐までは歩いていないようである。一遍上人が参籠して修行専一に勤めた岩屋寺(第四十五番)(写真1-1-13)は、伊予松山の平野より御坂峠(三坂峠)を越えて久万高原の奥にある霊場であるが、一遍はその岩屋寺に逗留していたと言われる。やがて高野山に登るのであるが、その間において伊予・讃岐の霊地を訪れたのではなかろうかと考えられる。一遍上人が逗留したという伝説を持つ香川県宇多津の郷照寺(ごうしょうじ)(第七十八番)は、四国八十八ヶ所中唯一の時宗(じしゅう)の寺であり、その旧名は道場寺であったという。この寺の御詠歌にも、『おどりはね念仏となう道場寺拍子をそろえ鉦(かね)を打つなり』とあり、念仏の聖(ひじり)であった一遍上人と関係ないとは思われない。(㉒)」と述べている。
 また『愛媛県史 学問・宗教』では、一遍が四国霊場中参詣または参籠したことの明らかなのは、岩屋寺・繁多寺・善通寺・曼荼羅寺などであるが、くまなく各地を遊化してまわったとみられると指摘している(㉓)。

 そして武田明氏は、「空海・空也・西行・一遍などは、四国八十八ヶ所の札所寺院が固定する以前の四国遍歴の姿であった。あるいは固定しつつある時代のものであった。もちろんこうした有名な宗教者の他にも、無名の人々が多く歩いていて次第にその形が定まってくるのであるが、こうした知名の僧侶たちが修行したと伝えられる霊場が、四国八十八ヶ所のさきがけとして存在するようになってきた、ということは考えられる。(㉔)」と述べ、著名の僧侶たちが、弘法大師信仰の普及や四国八十八ヶ所の形成に何らかの役割を果たしたのではないかと指摘している。
 しかし、いくら自然や交通の厳しさがあっても、武田明氏も指摘するように、僧侶や聖系の修行者だけが四国を訪れていたわけではなかった。中世においては、ただ、四国を訪れる旅人の数において、僧侶たちに比べて俗家が少なかったということである。近藤喜博氏も「所伝や伝承を欠くヒジリ系の修行者や、敗残者落伍者も四国の辺地を経回した。早い一例には、鎌倉武士であった田原(足利)又太郎忠綱が、伊予路をたどっている。『吾妻鏡』にもこの点は見えるが、四国の現地史料としては、伊予大成寺の地蔵菩薩立像の胎内銘にもその間の事情の一面を伝えている。(㉕)」と俗家を一例として挙げている。
 以上、四国を訪れた著名な人物を概略整理してみたが、一般の民衆に深く食い込んで弘法大師信仰を各地に普及させていったのは、高野聖だけではなかった。それ以外にも、真言宗の僧侶たちや他宗派の僧侶たちが、何らかの理由で四国の地を訪れて、弘法大師信仰の普及に関与し、四国八十八ヶ所の形成に何らかのかかわりを持ったということは推測されるのである。

<注>
①五来重『増補 高野聖』P29~31 1975
②谷口廣之『伝承の碑』P136 1997
③日本史広辞典編集委員会編『日本史広辞典』P793 1997
④前出注① P25
⑤前出注① P11
⑥前出注① P20~21
⑦前出注① P21~22
⑧五来重『空海の足跡』P188~189 1994
⑨真野俊和『旅のなかの宗教』P82 1980
⑩前出注② P137
⑪新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』P489 1988
⑫前出注⑩ P483
⑬武田明「四国霊場の起こりと人物史」(『巡礼・遍路~こころと歴史』P85~87 1997)
⑭越智通敏「霊場信仰の重層性と八十八ヵ所の成立」(『空海一人 その軌跡』P 83~85 1987)
⑮愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 学問・宗教』P639~641 1985
⑯近藤喜博『四国遍路研究』P8 1982
⑰前出注⑬ P86
⑱前出注⑮ P641
⑲前出注⑯ P9
⑳前出注⑬ P86
㉑前出注⑭ P84
㉒前出注⑬ P87~88
㉓前出注⑮ P641
㉔前出注⑬ P88
㉕前出注⑯ P9~10

写真1-1-12 高野山奥の院菩提所

写真1-1-12 高野山奥の院菩提所

古代末期から高野山は納骨の霊場として知られ、近世には「日本総菩提所」の名で、宗派に関わらぬ納骨がおこなわれていてきた。平成12年11月撮影

写真1-1-13  四十五番岩屋寺

写真1-1-13  四十五番岩屋寺

平成12年11月撮影