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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)四国遍路の信仰起源

 ア 山岳信仰と修験者

 都の人々が「四国の辺地」と称する辺鄙な四国の地に、平安時代末期にはすでに海辺を巡るミチらしきものがあり、そこを鄙なるがゆえに修行地として選んで歩き苦行する修行者たちが居たことを見てきた。それでは、なぜ「四国の辺地」が苦行する修行者の修行地となっていったのか。それは四国が辺鄙な地であっただけではあるまい。そこには何らかの信仰的な要素が加わっていたと言わざるをえないのである。
 その信仰的な要素としては、宮崎忍勝氏が「四国遍路の信仰起源には山岳信仰と海洋信仰があるといってよい。(①)」と指摘しているように、山岳信仰と海洋信仰が四国遍路の信仰起源に何らかのかかわりがあったことは確かであろう。
 山岳信仰について、谷口廣之氏が、「山岳崇拝はかつて日本人が抱いた特有の観念であった。春になると山の神が降り来たって田の神となり、収穫を終えると再び山へ帰って行く。山は神霊のいますところであり、また死霊の行くところでもあった。(②)」と説くように、古来、山岳信仰は、農耕、特に稲作を生活の基本に据えた日本人のくらしの中に深くしっかりと根づいた信仰であった。
 四国における山岳信仰の代表的な山としては、古くから多くの人々の信仰を集めてきた石鎚山(写真1-1-4)がある。石鎚山は神聖な山であり、俗人の登山を許さず、ただ浄行の者のみがそこに登りそこに住んだ。石鎚山の周囲の村では、かつては成年式の通過儀礼として若者たちに石鎚登山を課す風習があった。また、春が来て石鎚山の残雪が石鎚の形をする季節には、苗代作りを始める風習もあった(③)。このように人々は石鎚山を神聖な山として信仰したのである。
 山を宗教的な世界として巡る行為は、すでに奈良時代以前に始まっていた。いや、縄文期の山人が、狩猟の成果と、日々の安全を山神に祈ったであろう行為を想像するならば、山を巡る宗教は、すでに原始の時代から始まっていたとも思える。だが山の多くは、はじめ水源を司る水分(みくまり)の神が居るところ、祖霊がこもるところとして、みだりに踏み込んではならない聖域として、遙拝(ようはい)されていた。そしてやがて山は、人が背負う罪と穢(けが)れを浄(きよ)めた者のみが入り、修行することのできる浄地として、修行者が山神と交わる異次元(他界)の霊地となったという(④)。
 そして、やがて修験道(しゅげんどう)の開祖役小角(えんのおづぬ)(または役行者(えんのぎょうじゃ))によって、険しい山岳に苦修練行(くしゅうれんぎょう)して、特異な霊験を得ることを目的とする修験道が生まれたとされ、奈良時代には、役小角を修験道の祖と仰いで僧侶などが山林で修行することが流行した(⑤)。
 こうした山岳霊場としては、今日、全国的には立山、白山、伯耆大山(ほうきだいせん)など幾つかの有名な霊山があるが、石鎚山もまた、かの役小角が開いたという縁起がつくられ、我が国を代表する霊山の一つに数えられるようになっていった。
 若き日の空海(774年~835年)が著わしたとされる『三教指帰(さんごうしいき)』には、

   阿国大瀧嶽(あこくたいりょうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)ぢ、土州室戸崎(としうむろとのさき)に勤念(ごんねん)す。
   谷響(たにひびき)を惜しまず、明星來影(みやうじやうらいえい)す(⑥)。
    (略)
   或るときは金巖(きんがん)に登つて雪に遇うて坎壈(かんらん)たり。
   或るときは石峯(せきほう)に跨(また)がって粮(かて)を絶つて轗軻(かんか)たり(⑦)。(原漢文)

とあり、空海も四国の地で辺地修行とともに山岳修行をしていたことが推測される。
 五来重氏は、「前奈良期から奈良時代にかけては、庶民信仰としての山岳宗教が仏教と結びついた時代で、南部六宗の外来直訳仏教とは別の庶民仏教が、無名の聖(ひじり)や沙弥、優婆塞(うばそく)、禅師によってひろく行われていた。(中略)この中の優婆塞と禅師は山岳信仰の実践者であるが、弘法大師は青年時代にこのなかへ飛び込んでいった。(⑧)」と述べ、以前からあった山岳信仰に空海も優婆塞の一人として加わっていたと指摘している。
 そしてそのことは同時に、一人の空海が出るためには無数の無名の辺地修行者がいたことをも示しているのである。
 空海が何の目的をもって四国の地で修行したかということであるが、四国遍路の霊場を開創するためであったとするのはもちろん後世の信者たちが考えた見方であって、空海をして四国の辺地を歩かせたものは別のものであろう。空海が歩いた修行地は、四国だけではなかった。むしろ四国も修行地の一つであったと言うべきであろう。
 空海が四国の地を修行地として選んだのは、四国の地が彼の生まれ故郷であったことも一つの理由として考えられよう。しかしそれだけではない。根本的には「四国の辺地」が修行の条件を十分に備えており、当時の修行者にとって適当な修行地の一つになっていたからと言うべきであろう。そのために空海は、自身が述べているように、「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を習得するための修行地の一つとして四国を選び訪れたのではなかろうか。
 「虚空蔵求聞持法」とは、記憶力を増大させるための密教の秘法である。虚空蔵菩薩の真言(呪文)を百万回唱えれば、あらゆる経典を暗記し理解することができるとされるものであった。当時この求聞持法は、山岳修行者の間で流行していたといわれている(⑨)。
 『三教指帰』の巻の上に「爰(ここ)に一(ひとり)の沙門(しゃもん)有り。余(われ)に虚空藏聞持(こくうざうもんぢ)の法(ほふ)を呈(しめ)す。其の經(きやう)に説かく、『若し人(ひと)、法(ほふ)に依って此の眞言(しんごん)一百萬遍(まんべん)を誦(じゆ)すれば、即ち一切(さい)の教法(けうぼう)の文義暗記(もんぎあんき)することを得』。ここに大聖(だいしやう)の誠言(じやうごん)を信じて飛燄(ひえん)を鑽燧(さんすい)に望む。(⑩)」とあるように、ある日、空海は一人の仏教者に出会い「虚空蔵菩薩求聞持法」を授かった。そしてある時は阿波の大瀧嶽に登り、ある時は土佐の室戸崎で一心に修行に励んだ。空海が修行を進めるうちに「谷はこだまし、明星があらわれる」など様々な超自然的な現象が現れた。そのため空海の仏陀(釈迦)への信頼はいやがうえにも高まり、以降、彼は修験道の行者の仲間に入って、一層修行に打ち込むのである(⑪)。
 また空海は、修験道の源流ともみなされる「金巌」即ち吉野の金峰山にも、「石峯」即ち石鎚山にも登り、厳しい修業に身をゆだねる優婆塞の一人として修行に専念している。
 平安時代末期の『梁塵秘抄』巻二の二百九十八に次のような今様歌がある。

   聖の住所(ぢゆうしよ)はどこどこぞ
   大峰葛城石(おおみねかづらきいし)の槌(つち)
   簑面よ勝尾よ
   播磨の書写の山
   南は熊野の那智新宮(しんぐう)(⑫)

 ここで歌われている聖とは、民間の宗教者のことであり、修験者である。そして「石の槌」は石鎚山のことである。ここでも、石鎚山が幾つかの山とともに人々の信仰の対象とされ、修験者たちの修行の場となっていたことがうかがえる。
 その他にも四国には、四十五番岩屋寺や六十番横峰寺など、明らかに山岳修験の徒の道場として開かれたと思われるところが幾つかあり、その場所が今日の四国八十八霊場の札所にもなっている。
 このように、かつての修行者たちは、辺地修行の場だけでなく、山岳修験の道場としてしばしば四国の地を訪れ修行した。谷口廣之氏が、「四国遍路が成立してくる過程には、山岳信仰の伝統も流れ込んで来ている。(⑬)」と指摘するように、山岳信仰は四国遍路の起源に深いかかわりを有していたと思われるのである。

 イ 海洋信仰と補陀落信仰

 四国遍路の信仰起源を考える場合、山岳信仰とともに重要な意味を有するのが海洋信仰であり、観音信仰、補陀落(ふだらく)信仰であるとされる。
 海洋信仰について宮崎忍勝氏は、「祖神を祭るいくつかの神社が海のほとりに立てられていることでもわかるように、遥(はる)か水平線の彼方に、我々日本民族の妣(はは)なる国、そこから来てまた帰ってゆく、あこがれの常世(とこよ)の国、根の国があり、海岸の洞窟は山岳の洞窟と同じく、根の国への入口とされ、あるいは妣なる胎内そのものと考えられてきた(⑭)。これが中世の補陀落渡海の信仰へとつながってゆくのである。」と述べている。
 また谷口廣之氏は、「折口信夫氏は、古代日本人が海の彼方に観念した常世の国について指摘したが、そのような伝統的他界観は仏教思想との習合を経て、南方の彼方に観世音菩薩のいます補陀落浄土を観念させるようになった。(⑮)」と海洋信仰と観音信仰、補陀落信仰との関係について述べている。
 我が国における観音信仰について、新城常三氏は次のように指摘する。

   釈迦の弟子弥勒が兜率天に住し、五十六億七千万年後、仏法滅尽の時、この世に第二の釈迦となって出現して、法を説く
  という弥勒信仰は、早くよりわが国に移入・摂取されたが、殊に平安中期に至り盛んとなった。(中略)弥勒信仰以上に、
  貴賤を越えて信仰のより早くから普遍的なものは、観音信仰であった。印度、中国においても、古来最も篤く信仰されたも
  のは観音信仰であるが、その理由は所依の経典たる『観音経』が、簡明にして、しかも生の幸福一般を人間に約束すること
  を、その本領とするためと解釈されている。わが国でも、観音信仰の受容・発展は、聖徳太子と法隆寺夢殿観音との有名な
  説話や、また天平時代の彫像中、約5分の1を観音像が占めている事等がこれを立証している。この観音信仰は、平安時代
  に入ってさらに発展し、(中略)平安期の彫像中、最大多数を占めるものが観音像である。(中略)奈良時代の説話集『日
  本霊異記』にも、およそ20編に及ぶ民衆にからまる観音霊験譚が収載され、平安時代末期の説話集『今昔物語集』もま
  た、その16巻は、全巻40編が悉く同様の観音説話をもって埋めつくされている。したがって観音寺院参詣も、古くから見
  られ、中略)霊験を期待した人の集まる著名な観音寺院が、しだいに増加し、(中略)これらの有力観音寺院を中心とし
  て、近畿地方では、やがて平安末期に至り、西国三十三観音霊場が成立した(⑯)。

 近藤喜博氏は、四国の辺地をいったい何の必要から、いかなる欲求によって人々は踏み巡らねばならなかったのかという問題を提示して、それを明解に論断することは容易ではないとしながらも、重要なものとして、観音浄土の補陀落信仰ないし補陀落渡海が、比較的大きく浮かび出るとし、「『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国海岸廻りの辺地が散見してくる時代、補陀落信仰は、補陀落渡海の実習としても迹づけられてくるのである。(⑰)」と指摘している。
 こうした観音信仰の浸透は、やがて補陀落信仰の普及を促し、時々の政治や社会情勢や仏教思想の変化によって補陀落渡海も行われるようになっていったと考えられる。
 こうして、観音浄土をめざす補陀落信仰、補陀落渡海は、四国の辺地を巡る人々の一つの信仰目的として大きくかかわりを持ちながら、人々をして四国の辺地をその実習の場として訪れさせる要因ともなっていったというのである。
 では一体、この補陀落信仰、補陀落渡海とはどのようなことであろうか。補陀落とは遠くインドの南海岸にあると伝説的に信じられている山で、観音菩薩のいます所である。中国では浙江(せっこう)省の普陀(ふだ)山、チベットではラサがこの山に擬せられている(⑱)。そして補陀落渡海とは、この観音菩薩の住むとされる補陀落浄土をめざして、わずかな食料を舟に積んで南海洋上にこぎ出すというものであり、もちろん生きて再びいずれかの土を踏むことはほとんど望めない旅であった(⑲)。
 また補陀落渡海は、一面では、臨終に近い僧を舟に乗せ、海上に放ったのだという伝承もある。これは水葬以外のなにものでもなく、洋上に送り出すことが、浄土往生の約束ともなったのである(⑳)。
 こうした信仰の実践行としての船出の場所は、我が国では和歌山県の那智(なち)浜の宮が特に有名である。那智浜の宮の補陀落寺の住持として、渡海を果たした人々を記録した『熊野年代記』は、貞観10年(868年)の慶龍上人以来、平安時代から江戸時代まで、20人の補陀落渡海者を記している(㉑)。
 四国の海辺で、補陀落信仰の面影をよく伝えているのは土佐の東西両端、室戸岬と足摺岬(写真1-1-5)である。室戸には二十四番最御崎寺、足摺には三十八番金剛福寺があり、両寺とも補陀落東門とよばれて、補陀落浄土への入口とされている(㉒)。
 渡海者の記録を追っていくと、戦乱と天災が打ち続き、飢饉や疫病の流行(はや)った中世の後半から近世にかけてのころに、その例の多いことがわかる。しかもこの時期は、宗教をはじめあらゆるものが、日本的な展開を遂げているときであった。補陀落渡海はこうした揺れ動く時代を背景に、死出の旅として果たされていった(㉓)。
 鎌倉時代の末期、南北朝の戦乱へと続く時代に、久我雅忠女という人物が『とはずがたり』という回想的自叙伝を残している。そのなかに、次のような話がある。

   かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなくまた坊主もなし。ただ修行者、行きかかる人のみ集まり
  て、上もなし下もなし。「いかなるやうぞ」といへば、「昔一人の僧ありき。この所に行ひてゐたりき。小法師一人使ひ
  き。かの小法師、慈悲をさきとする志ありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人来て、齎(とき)・非時を食
  ふ。小法師必ずわが分をわけて食はす。坊主いさめて曰く、『一度二度にあらず。さのみかくすべからず』といふ。またあ
  したの刻限に来たり。『志はかく思へども、坊主しかり給ふ。これより後はなおはしそ。今ばかりぞよ。』とて、また分け
  て食はす。いまの小法師曰く、『このほどの情忘れがたし。さらばわがすみかへいざ給へ、みに』といふ。小法師語らはれ
  て行く。坊主あやしくて忍びて見送るに、岬に至りぬ。一葉の舟に棹さして、南をさして行く。坊主泣く泣く、『われを捨
  てていづくへ行くぞ』といふ。小法師、『補陀落(ふだらく)世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の
  艫舳(ともへ)に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺りをしたりけるより、足摺の岬といふなり。岩に足跡とどまると
  いへども、坊主はむなしく歸りぬ。それより、隔つる心あるによりてこそ、かかる憂きことあれとて、かやうに住まひた
  り」といふ(㉔)。

 これは足摺岬から補陀落渡海した僧の話である。弟子の小法師が師の坊主に先だって補陀落浄土へ渡海することになり、二人の小法師を見送る師の坊主が泣き悲しんで足摺りをしたことを物語っている。そのためこの地を足摺岬と呼ぶようになったと地名起源説話の形をとっている。
 さらに、「かの岬に堂一つあり」と書かれていた今日の金剛福寺(写真1-1-6)の御詠歌は「ふだらくやここは岬の舟の棹、とるも捨つるも法(のり)の蹉蛇山(ふだやま)」であり、ここにも足摺岬が補陀落渡海の場所であったことを想起させるものがある。
 また、室戸の二十四番最御崎寺(写真1-1-7)と二十六番金剛頂寺、山号に補陀落山の号が付く香川県の大川郡にある八十六番志度寺、八十七番長尾寺なども補陀落渡海に何らかのかかわりを抱かせるものがある。
 こう考えてくると、近藤喜博氏が指摘するように、「志度・室戸・足摺岬へと大きく迂回する辺地が浮かんでくる可能性がある。(㉕)」のであり、補陀落信仰を通して四国に大きく迂回するミチが形成されていったことが推測されるのである。
 このように「四国の辺地」は、山岳信仰や海洋信仰を信仰起源としながら次第に姿を整え、そこを訪れる修行者らによって、各行道が踏み固められていき、さらにそれらの行道は大きく迂回し四国を巡る大行道へと発展していって、四国遍路の原形が形成されていったものと考えられるのである。

<注>
①宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』P28 1985
②谷口廣之『伝承の碑』P134 1997
③前出注① P22 残雪の石鎚山の姿は、『大山・石鎚と西国修験道』(名著出版)によると、伊予小松や西条あたりからは槌の柄のように見え、道後平野からは鍬の柄のように見えるとされ、地域によってその呼び方は異なるようである。
④久保田展弘『山岳霊場巡礼』P109 1985
⑤瓜生中『仏教入門』P165 1994
⑥岩波書店『日本古典文学体系71』P84 1965
⑦前出注⑥ P118
⑧五来重『空海の足跡』P190 1994
⑨前出注⑤ P188
⑩前出注⑥ P84
⑪前出注⑤ P188
⑫小学館『日本古典文学全集25』P276 1976
⑬前出注② P134
⑭前出注① P26~27
⑮前出注② P135
⑯新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』P26~27 1988
⑰近藤喜博『四国遍路研究』P10~11 1982
⑱弘文堂『日本宗教事典』P399 1985
⑲真野俊和『旅のなかの宗教』P72 1980
⑳前出注④ P139
㉑前出注④ P137
㉒前出注② P135
㉓前出注④ P137
㉔朝日新聞社『日本古典全書 とはずがたり』P424~425 1966
㉕近藤喜博『四国遍路』P54 1971

写真1-1-4 石鎚山

写真1-1-4 石鎚山

温泉郡重信町より遠望。平成12年11月撮影

写真1-1-5 足摺岬

写真1-1-5 足摺岬

補陀落渡海の場所の一つといわれている。平成12年11月撮影

写真1-1-6 三十八番金剛福寺

写真1-1-6 三十八番金剛福寺

平成12年11月撮影

写真1-1-7 二十四番最御崎寺

写真1-1-7 二十四番最御崎寺

平成12年11月撮影