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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)四国の辺地-四国遍路の原形-

 ア 四国の辺地

 日本において、巡礼という言葉は、少なくとも平安時代前期には使われていた。天台僧円仁(794年~864年)が彼の中国求法記のタイトルに『入唐求法巡礼記』と題したのが、日本におけるその語の初見であるともいわれている(②)。
 そうだとすれば、巡礼の形式はともかくとして、巡礼という概念は、平安時代にはすでに我が国に入り、それらしいことがどこかで行われていたと考えられる。
 四国遍路の原形ともいえる四国の山野を巡り歩く信仰の行を証拠立てるものとしては、多くの論者は一般的に『今昔物語集』と『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に出てくる二つの史料を挙げている。
 平安時代の末期、院政期と呼ばれる時代に書き残された『今昔物語集』巻三十一には、「通四国辺地憎行不知所被打成馬語第十四」(四国の辺地を通る僧知らぬ所へ行きて馬に打ち成さるる語第十四)と題する説話があり、この話は次のようにはじまる。

   今昔(いまはむかし)、仏(ほとけ)ノ道(みち)ヲ行(おこなひ)ケル僧三人伴(そうみたりとも)ナヒテ
   四国(しこく)ノ辺地(へんぢ)ト云(いふ)ハ伊予(いよ)、讃岐(さぬき)、阿波(あわ)、土佐(とさ)ノ海辺(うみのほとり)ノ
   廻也(めぐりなり)(③)

 また、同じく平安時代末期にまとめられた『梁塵秘抄』巻二の三百一には次のような今様(いまよう)歌がある。

   われらが修行せし様(やう)は
   忍辱袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け
   また笈(おひ)を負ひ
   衣(ころも)はいつとなくしほたれて
   四国の辺地(へち)をぞ常に踏む(④)

 この二つの史料で注目すべき箇所は、『今昔物語集』での「仏ノ道ヲ行ケル僧」と「四国ノ辺地」、「海辺ノ廻也」の部分であり、また『梁塵秘抄』での「われらが修行せし様」と「しほたれて」、「四国の辺地」、「常に踏む」の部分であろう。
 これらの史料によれば、すでに平安時代の末期に、四国の海辺を廻(めぐ)るミチ(写真1-1-1)があり、しかも修行僧とみなされる人々が何らかの目的を抱いて、長期間そこを廻っていたことがうかがえるのである。
 それでは、ここで言う「四国の辺地(邊地)」とは何を指すのか。『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に出てくる「四国の辺地」が意味するもの、その解釈について、各論者の考えを整理しておきたい。
 新城常三氏は、「しこくのへちは、場所を示し、動詞ではない。邊地は邊土とともに『今昔物語集』そのほかにも用例は少なくないが、極楽の邊土等の仏教用語の外は一般に辺境地、片田舎等と解して大体通ずるようである。しかしながら、四国の邊地という場合、そこには若干多少特別の意味が加わるようである。『今昔物語集』には『…海邊ノ廻也』と説明しており、『梁塵秘抄』には『…潮たれて‥・』とあり、海沿いを廻る道=浦路に縁深いようである。(⑤)」と述べている。
 また近藤喜博氏は、「邊地とは、海辺の路に関していうと共に、その路を廻る修行者の行動も併せ含んだ邊地だったようである。この見解が正しいかどうか、さらに考えていかねばならぬが、少なくとも『今昔物語』の成立したころ、天ざかる鄙(ひな)の四国に邊地があり、しかもこれを廻っていた者があったことだけは認められる。これをミチといったものに限定して考えると、この場合の邊地は、ミチ-道路-というに値しない、曲折した細い路であったのであろう。(⑥)」と述べている。
 さらに真野俊和氏は、「『四国の辺地』とは単に海を越えた辺境の地というだけの意味ではなく、四国の海沿いをひとめぐりするミチと考えられていたのである。四国遍路の源もこのあたりに求めることができそうだ。この頃、四国の辺地(土)に修行する人々の間で弘法大師への信仰がより強く意識されるにつれて、もともと辺地の考え方のなかにあったと思われる『ミチ』の観念が次第にふくらんでいって、やがて辺地をめぐるミチ、つまり『辺路』ということばが作り出されたのではないだろうか。(⑦)」と述べている。
 谷口廣之氏は、「『四国の辺地』とはどのようなものなのか。(中略)辺地という言葉には、辺鄙(へんぴ)な所・国境といった本来の意味とは別に、他界へと通じる場所であるという意味で用いられることもある。辺地という言葉と同じような意味で辺土という言い方もある。」と述べている(⑧)。
 五来重氏は、『今昔物語』で「辺地(へじ)」と書いていることについて、「辺地は辺鄙な土地、あるいは海辺の土地という意味はあっても、廻るという行動はあらわさない。海辺の路があればこそ、『海辺の廻』があるといえるから、これは中世の『辺路』『中辺路』という用語例が正しく、紀州の『大辺路(おおへじ)』『中辺路(なかへじ)』と同じ内容をもった言葉とすることができよう。『今昔物語』はこのほかにも『辺路』と書くべきものを『辺地』と書いたと推定されるものがある。(⑨)」と述べている。
 以上の論考を総合してみると、「辺地」はそれだけでは辺鄙な所、あるいは他界へ通ずる場所という意味で「廻る」という行動はあらわさない。『今昔物語集』に「海辺の廻也」とあるように、「海辺の廻」があるからこそ「四国の辺地」は「海辺を廻るミチ」という意味になるとして、一般的には「四国の辺地」はそのミチを巡る修行者の行動も併せ含んだ辺地ととらえている。
 しかもこのミチは、近藤喜博氏が指摘するように、ミチでありつつも同時に、早期には往来希(まれ)なミチであったろう。それにしても平安時代の末期に、突如としてこうした辺地が踏みつづけられたものではなく、鄙のミチが通ずるためには、細いミチであっても、長い時間を要して踏みつづけられたと考えねばならないのである(⑩)。
 この「四国の辺地」と称する海辺を廻るミチについて、五来重氏は「海辺を廻るという修行形態が四国にあったことは確かなのである。(⑪)」として、ミチを廻る修行形態の存在を指摘し、真野俊和氏は、海辺を廻るミチが今日の四国の遍路道とつながってくるか否かはわからないとしながらも、「四国の辺地なるミチがどんな性格の道かいろいろ考えられるだろうが、少なくともそれを今日の四国遍路の前身と想像することは許されてよいだろう。(⑫)」と指摘しており、各論者は、「四国の辺地」を四国遍路の前身と考えている。
 当時の都の人々にとって、四国は、海を渡らねばならない遠隔の地であった。しかも中央に四国山脈がはしり、石鎚山と剣山という二つの主峰がそびえているため、山系を横断し、あるいは縦断するようなミチの開発は容易なことではなかったと思われる。そのため、四国のミチはまず海辺のミチから開かれていったと想像できる。しかもそのミチは、初期においては、けだものの通るミチであったり、漁労や狩猟をする人々が通るミチであったと思われる。そしてそのミチは、都から遠く離れた四国では、政治的に重要さを担うことのないミチであったのである。
 そうしたミチを、『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に出てくるような修行者たちが廻り、踏み固めていったものと推測されるのである。
 また、こうしたミチには、修行者が修行する以上、そこには何らかの修行ができる要素が含まれており、そうした要素を含んだミチを行道と称するならば、どのような所が修行者の修行する行道となっていったのだろうか。
 五来重氏は、辺路(地)修行を行う場所の共通条件としては、第1に海辺もしくは海を望見できる山に、行道のできる巨巌や岬や経塚があること、第2に窟籠(いわごも)り(禅定(ぜんじょう))のできる洞窟があり、その洞窟は海に面していることの二つがあると指摘している。そして、こうした条件を満たす行道所のあった場所の事例として、高知県室戸市にある室戸岬と行当岬を挙げている(⑬)。
 調べてみると、確かに室戸岬には海が望見できる山があり、そこには窟籠りのできる御蔵洞(御厨人窟(みくろど))(写真1-1-2)がある。また、行当岬には不動岩(写真1-1-3)と称する修行できる巨巌があり、そこにも窟籠りのできる洞窟がある。そして室戸岬の上には二十四番最御崎寺(東寺)が、室戸岬の西北にある行当岬のに修行したと伝えられる室戸崎(室戸岬)は、おそらく東寺と西寺を合わせたもので、室戸岬と行当岬を廻る行道で修行していたのではないかと推測されるのである。
 そして五来重氏は、現在の「行当岬」のある「行当」という地域名は、かつては「行道」という名称ではなかったかと指摘する(⑭)。
 以上、五来重氏の論考をもとに古代の人々が修行したミチ、すなわち行道について整理してみたが、行道は、おそらく上記のような条件を満たす場所にできた行道所と行道所をつないで成立していったものと考えられる。そして、こうして形成された各地のいわば小行道(小巡礼)は、更に連結されて四国全体を廻る大行道(大巡礼)へと発展し、やがて四国の辺路となっていったのではないかと推測されるのである(⑮)。

 イ 四国の辺地を巡る修行者

 修行者たちは、四国の辺地をいかなる理由で巡ったのであろうか。そこには修行者たちを引き付ける何かがこの四国にはあったということであろう。
 昔の旅について新城常三氏は、次のように述べ、古代や中世において旅する者の多くは、止むに止まれぬ内心の切実な信仰的な理由で苦行をする僧侶が中心であったことを指摘している。

   交通機関・交通施設の完備した現代においては、旅は一つの快楽であり、レクリエーションの最たるものである。しかし
  ながら、昔の旅は一般に快楽から縁遠いものであった。旅が現在のように、一種のレクリエーション化したのは江戸時代以
  降であって、それは、民衆の著しい経済成長、封建制度の完成によって実現された平和な社会、山賊・海賊の減少及び街道
  の旅宿・慰安施設の充実、駕籠・馬等交通手段の自由な利用等、そのほか種々の理由に由るものであった。しかし、それ以
  前の古代・中世には、末だ以上の諸条件は整わず、したがって当時の旅は、一般に快適よりも、むしろ苦行であった。かか
  る段階においては、旅への欲望は、人々の胸に容易には燃え上がらず、ただ、止むに止まれぬ内心の切実な欲求のみが、彼
  等を旅へと動かすのであった。かかる旅への強い内的要因として指摘されるものは、さきの生命保存を別とすれば、おそら
  く信仰であろう。したがって、旅はかつて信仰的な旅、すなわち宗教家の布教、僧侶及び一般俗家の社寺参詣等が、圧倒的
  に優勢を占めていた(⑯)。

 このように、古代の旅は苦行であった。特に都から遠く離れた辺鄙な四国の旅は、想像を絶するような苦しい旅であったと思われる。そこを止むに止まれぬ内心の切実な信仰的な理由から修行僧たちが旅をしていたのである。四国の辺地はこうした人々によって次第に踏み固められていったものと考えられる。
 次に、このように政治的にも経済的にも特別の価値をもちえなかった四国の辺地が、修行者たちの信仰の場として選ばれた理由について整理してみたい。
 この疑問について武田明氏は、「四国は海にかこまれた島国であり、平野は少なく一歩分け入るとけわしい山岳がそびえたっている。四国の海岸地帯の平野の大部分はここ三、四百年来の干拓と開墾の結果である。それであるから、昔の人は四国はひどい山国であると言う観念を持っていたに違いない。畿内、中国、九州あたりの人びとから見ればやはりこれは一つの他界であって、行くのには海を渡らねばならず四国全島を死者の霊魂のこもる霊地と考えていた。(⑰)」と述べている。
 また谷口廣之氏は、「辺鄙な場所は通常人跡の絶えた土地である。人々が日常の生活を営む場所とは対極にある土地、いわば非日常的な場所との間、山川の空間はしばしば神霊や死霊、荒ぶる霊の住む所でもある。それが他界や異郷への入口である。古代の民間宗教家・修行家は、それらの他界・他界との接点に修行を積むことによって不思議な呪力・霊力・験力を身につけようとしたのである。(⑱)」と述べている。
 さらに宮崎忍勝氏は、「古代人は、死霊の棲む所として、海の彼方の島や山岳を想定したのである。そして肉体は朽ちはてても霊魂は永久にそこに留まっているのであり、呪力を身につけた修験者・行者・巫女たちは霊界と交流し、霊界の言葉を現世の人々に伝えることができると信じられてきたのである。(⑲)」、「土佐の国は罪人遠流の僻地でもあった。だから昔の人々にとっては一層、四国は現世から遠い流刑の地、流されて命果てた怨霊や死霊の棲む恐ろしい所、すなわち山中他界であり、それだけにそうした霊山(死霊の山、納骨の菩提所を霊山・霊地という)に修行することは、より不可思議な呪術と霊験を身につけることができると、修行者たちの間では信じられていたのである。(⑳)」、「昔の修行者たちには荒行をよろこぶ風があった。四国の辺地において難行苦行の修行をすることが、信仰の中心であったのである。(㉑)」と述べている。
 これらの論者の論考を総合すると、古代人のなかには、四国の辺地が辺鄙なるがゆえをもって神霊や死霊の住む場所と考え、そこで修行することによって不思議な術や霊力を得ようとして苦行を求め、四国のミチを巡っていた者がいたと一応結論付けることができるのではあるまいか。
 そして、こうした要素を内包する「四国の辺地」を、近藤喜博氏が、「四国経廻の修行者は、念仏行者系か修験山伏系のいずれなのか截然(せつぜん)と分けることは出来まいが、どちらかといえば修験系、山伏的な臭が、その初めはやや濃かったのではないのか。(㉒)」と指摘するように、「四国の辺地」を主に修験系、山伏系のプロの修行僧である頭陀聖(ずだひじり)たちが巡っていたのではないかと思われるのである。


<注>
①星野英紀「巡礼-その意味と構造-」(『巡礼と文明』P16~17 1987)
②前出注① P5
③小学館『日本文学全集24』P577 1976
  本引用原典文については、当用漢字字体の当てられるものは、すべてその字体としている。
④小学館『日本文学全集25』P277 1976
⑤新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』P481~482 1988
⑥近藤喜博『四国遍路』P30 1971
⑦真野俊和「同行二人の遍路道-四国霊場」(『日本の聖域10』P123 1981)
⑧谷口廣之『伝承の碑』P131 1997
⑨五来重『遊行と巡礼』P107 1989
⑩前出注⑥ P39
⑪前出注⑨ P107 
⑫真野俊和『旅のなかの宗教』P71 1980
⑬前出注⑨ P108~109
⑭前出注⑨ P118
⑮前出注⑨ P109
⑯前出注⑤ P8~9
⑰武田明『巡礼の民俗』P111 1969
⑱前出注⑧ P132
⑲宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』P73 1985
⑳前出注⑲ P73~74
㉑前出注⑲ P75
㉒近藤喜博『四国遍路研究』P37 1972

写真1-1-1 高知県東洋町から室戸岬に至る途中の海辺

写真1-1-1 高知県東洋町から室戸岬に至る途中の海辺

昔の修行者は、このような海辺を歩いたと想像される。平成13年2月撮影

写真1-1-2 室戸岬の御蔵洞

写真1-1-2 室戸岬の御蔵洞

平成11年12月撮影

写真1-1-3 不動岩の行道所

写真1-1-3 不動岩の行道所

行当岬に烏帽子(えぼし)の形をした巨巌がそびえ、そこには洞窟とそこをめぐる行道がある。平成12年11月撮影