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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)自給型農業から商品作物農業へ(芸予諸島)

 一口に瀬戸内の島々の農業と言っても、芸予諸島と忽那諸島のそれとでは歩んできた道程に開きがあり、それぞれに特性がある。
 芸予諸島には愛媛県内最大の大三島があり、その面積は64.6km²の広さであるが高度の割合からみて急峻な山が多く、他の島も平地に乏しいので水田面積が少ない。また、雨の少ない気象条件は水資源の確保が難しく、藩政時代から力の注がれた新田開発にも限界があった。それでも、越智郡の島々では江戸時代の中期ころからとくに新田の開発が盛んとなり、享保末年(1736年)における大三島全体の新田開発は約61町歩(ha)に及び、これは水田総面積の約3割に当たるものと言われている(②)。
 水田の少ない島しょ部の農業は、ムギ・サツマイモ・雑穀などの畑作中心であり、農産物を売ることよりも自給に比重を置いた農家が多く、そのほとんどは耕作面積の少ない零細経営であった。
 自給色の強い芸予諸島の農業にも、新しい商品作りの芽生えがあった。それは、隣接する広島県の島々から伝わってきた除虫菊である。明治18~19年(1885~1886年)ころ、我が国の新興農産物として除虫菊が導入され、幾多の試作や適地の模索を経た後、本県に初めて取り入れられたのは明治30年(1897年)ころである。
 これに先立ち、我が国における除虫菊栽培の創始者上山英一郎氏(和歌山県出身)は、瀬戸内海地方の旅に際して、この地域の気象条件が除虫菊栽培の最適地と予見した。彼は、明治23年(1890年)に広島県三原市の前に浮かぶ御調郡向島を訪れて、その栽培を奨励し、その後もしばしば島々を歩いて、除虫菊栽培の有利性を説いて回った。当初は山師扱いにされて耳を傾ける者もいなかったこの地方の農家も、あまりにも熱心な彼の熱意に動かされ、ついに試作に取り掛かったのがその始まりである。
 除虫菊栽培の経済的な見通しが立ち、広島県側の島々で本格的な栽培が行われるようになったのは、明治27~28年(1894~1895年)と言われ、その成功例が、近接の愛媛県や岡山県、香川県へと波及した(③)。
 本県における除虫菊栽培が、急速に伸びたのは大正期に入ってからであり、最盛期の昭和10年(1935年)には栽培面積1,788町歩(ha)に及び、全国第3位の生産県として発展を見せている。
 また、葉タバコも、島々の農業では除虫菊と並ぶ重要な商品作物であった。
 愛媛県における葉タバコの歴史は古い。慶長年間(1596~1615年)には、すでに宇摩郡の銅山川流域に栽培が伝わっており、明治中期には県内の各地で葉タバコ作りが進められていた。これらの品種は一般に在来種と呼ばれるもので、品質の良い黄色種の導入は、大正2年(1913年)大三島で作られたものが最初である。
 大三島の宮浦村、岡山村、鏡村(現大三島町)に盛口村(現上浦町)を併せると138戸の農家が6町7反歩(6.7ha)の葉タバコ作りに取り組んだのである。そのころ畑作物の中心であった麦、サツマイモの1反当たりの収入12円に比べると、葉タバコは1反当たり150円前後の高値で買い取られ、これが刺激となって周辺の島々にも急速に葉タバコが普及していった。
 さらに伯方島を中心に、越智郡で栽培の広がった香料ゼラニウムも、戦後の新しい商品作物として注目を集めた。東京に本社を置く曹田香料株式会社は、天然香料の国産化を図るため、当初静岡県や鹿児島県でその開拓を進めてきたが、いずれも霜害や台風害によって成果をみるに至らなかった。ゼラニウムの栽培条件は、年平均気温16~18℃、年降水量1,000mm程度で、降霜のない温暖な気候を必要としている。そして、その条件に近い伯方島が最適地として選定されたのである。
 昭和26年(1951年)に伯方島を中心に導入されたゼラニウムは、図3-1-1のとおりその後順調な伸びを見せ、昭和34年(1959年)には生産者数1,345戸、栽培面積81haに発展した。また、曹田香料株式会社では、陸地部で栽培の多い大西町に蒸留工場を設置するなど、ゼラニウム栽培の基盤作りに努力してきたが、昭和30年代におけるミカンブームの大きいうねりはあまりにも早く、この新規作物を飲み込んでしまった(②)。

図3-1-1 愛媛県のゼラニウム生産の推移

図3-1-1 愛媛県のゼラニウム生産の推移

「愛媛の特用作物(愛媛県農林水産部園芸蚕糸課)」より作成。