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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)島々の荘園と水運の発達

 ア 荘園の発達

 奈良・平安時代から中世にかけて伊予の国に設けられた荘園は、約40余荘である。特に、12世紀前半の院政期に荘園が一般化し、瀬戸内海の島々も急速に増大した。荘園の設置を時代別に見ると、鎌倉時代の25か荘、続いて南北朝時代の22か荘である。これらの荘園や公領は戦国時代の乱世になると、戦国大名や地方の土豪に侵略され、9か荘に減少した。荘園公領制は、1582年から全国的に徹底して実施された太閤検地によって完全に崩壊し、農民を土地に固定した近世封建体制の基礎が確立した。
 伊予国の荘園は、地域的には越智郡(今治市と越智郡)の7か荘、伊予郡(伊予市と伊予郡)の8か荘が多い。越智郡に荘園が多いのは、越智郡が伊予の国の中心地(国府)であったことと、弓削荘はじめ島々が早くから荘園化されたためと思われる。
 島々では、12世紀末、後白河上皇によって建てられた長講堂領(後に東寺領)の弓削島荘、石清水八幡宮領の岩城島・生名島・佐島、醍醐寺円光院領の大島荘、大三島の長講堂領三島荘、また、奈良時代に法隆寺領となり、平安末期には長講堂領となった忽那島荘等がある。これらの島々は院政期(12世紀)に荘園化され、鎌倉時代にはほとんどの島々が中央の権門勢家や大寺社関係の荘園となった。
 瀬戸内海における島荘園の代表は、「塩の荘園」として名高い弓削島荘であった。

 イ 島々の水運の発達

 島々では弥生・古墳時代から塩を生産していたが、鎌倉時代には年貢塩として、島々の荘園から京都の荘園領主のもとへ、大量に海上輸送された。年貢塩の輸送船は梶取(かんどり)と呼ばれた操船技術者と水夫によって運搬された。彼らは専門的な水運業者ではなく、名主的な有力農民から梶取が選ばれ、下層農民から水夫(かこ)が徴発された。室町時代には商品経済が一層発展したが、15世紀以降荘園制の解体とともに島々の塩は、荘園の年貢塩から商品塩の性格を強めて、商品流通の中心となった。
 それに伴って、年貢塩を輸送していた島々の梶取たちも、商品輸送の専門的な水運業者である船頭に成長し、瀬戸内海海上輸送の担い手として縦横に活躍するようになった。
 室町時代において、専門的水運業者に成長した船頭の活躍を物語る代表的な史料は「兵庫北関入船納帳(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)」である(⑩)。この史料は文安2年(1445年)東大寺領の兵庫北関(神戸港)に入関したすべての船について、船籍地、積載品目、積載量、入関月日、関税額、船頭名、問丸(といまる)(商品物資の管理・中継取引業者)名が詳しく記載された帳簿である。この1年間に、弓削島籍の船が26回、岩城籍船が6回、伯方籍船が4回入関しており、積荷のほとんどは芸予諸島中心に生産された「備後(びんご)」と呼ばれる塩であった。この中で特に弓削籍の船が最も多く、しかも定期的に入関していることから、専門的な海運業者としての活動がうかがえる。島々の専門的な海運業者としては、150~200石積の船で7回も入関した弓削の船頭太郎衛門を代表として、5回入関の弓削島の兵衛太郎、4回入関の伯方島の船頭二郎兵衛、3回入関の岩城島の船頭善元などがあげられる。この帳簿に記載された北関入船数は延べ1,966艘であり、それらの船籍は瀬戸内海から阿波・土佐にかけて106か所に及んでいる。そのうち、弓削島籍の船が26回も入関して、106か所中17位にランクされており、15世紀中期の弓削島を中心とした島々の海運業の発展ぶりを示している。このように、弓削島の船頭たちを中心として、島々から摂津・京都へ瀬戸内海の海上ルートを往来し、年間3千石を越える大量の塩を中心に商品取引を展開した。