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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)古代の島々

 ア 百済(くだら)の役

 6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島をめぐる緊迫した情勢は、大和朝廷にとって重大な政治問題であった。唐と新羅(しらぎ)の連合軍は親日的な百済を攻撃し、660年に百済を滅亡させた。大和朝廷は百済の救援依頼に応えて、西征軍を派遣した。661年、斉明(さいめい)天皇一行は難波津(なにわつ)を出発し、備前国・備中国を経て伊予国熟田津(にぎたつ)に到着した。天皇一行は2か月にわたり滞在した後、筑紫朝倉宮(つくしあさくらのみや)(福岡県朝倉郡)に向かった。高齢の斉明天皇はその地で死去したが、662年2万7千人の大和軍は170艘(そう)の軍船を連ねて百済に進撃した。翌663年大和朝廷軍は白村江(はくすきのえ)の江口において唐の水軍と激突し大敗を喫した。この戦いには、伊予国越智郡の豪族越智直(おちのあたえ)や風早郡の物部薬(もののべのくすり)などが参加して捕らわれの身となったが(日本霊異記(にほんりょういき)の説話(*1))、瀬戸内海の沿岸や島々からも多くの海部(あまべ)(漁業、航海技術者の集団)に属する海人や農民たちが動員されたと推測される(⑤)。
 白村江の敗戦に大きな衝撃を受けた大和朝廷は、対外防備を強化するとともに、律令体制の充実に取り組んだ。対外防備策として筑紫に水城(みずき)(内側に水をたたえた防塁)などを築いたが、北九州から瀬戸内海地域を中心に築かれた20余か所の古代山城も対外的緊張の反映と考えられている(東予市永納(えいのう)山城など)。
  
 イ 古代における海上交通の発達

 645年の大化の改新後、中央集権的な律令国家体制が形成され、瀬戸内海沿岸も農業生産を中心に種々の資源・特産物の開発が進んだ。律令政権に貢納する官米・官物の輸送は、当初海難による物資の損失を恐れて海上輸送を規制し、運脚(うんきゃく)(調庸など租税を都まで運んだ夫役)による陸上輸送を建て前としていたが、現実には8世紀前半から、舟運による輸送が行われていた。8世紀半ばになると、官米や調庸など貢納物資の海上輸送が公認され、陸運に比較して大量輸送も可能となり、瀬戸内海の海上交通ルートの役割が一層重要となった。延喜式(えんぎしき)(*2)の規定にも、伊予国から京への往復に要する海路の日数が14日とされていた。
 古代において伊予国に至る瀬戸内海航路は、大きく分けて二つの基本ルートが推定される。その一つは、四国北岸沿いのコースであるが、海の難所来島海峡を控えているため古代ではあまり利用されなかったようである。主要なコースは山陽道南岸沿いに進む航路がとられ、斉明天皇の西征コースについてみると、鞆(とも)浦から因島、弓削島、岩城島、大三島を経て、難所の来島海峡を避けつつ、高縄半島に沿って南下し、熟田津に入港したものと推定されている。更に、熟田津から九州筑紫へのコースは忽那諸島から屋代島(山口県大島)付近を経て九州へ向かったものと思われる。
 また、今治付近の伊予の国国府から都へ向かう官物輸送ルートは、大島・伯方島・岩城島・弓削島を経て因島から鞆浦に至り、山陽道南岸沿いのルートに東進して摂津国難波津に入港したものと推定されている(⑥)。
 更に、官米・官物輸送のみならず民間の私的海上交易も盛んとなり、瀬戸内海沿岸の各地域を結ぶ交易圏が形成された。瀬戸内海航路の基本ルートに位置する島々の海人たちは、農業・漁業のかたわら半専業的に公的・私的海上輸送にさまざまな形でかかわったものと思われる。
 
 ウ 律令国家の動揺・藤原純友の乱

 律令国家は、9世紀になると公地公民制を中心に矛盾と動揺を表し、地方の治安も乱れて、瀬戸内海各地に海賊が横行するようになった。瀬戸内海において海賊の横行が本格化するのは、9世紀後半の貞観(じょうかん)年間(860年代)からであり、特に、伊予国の宮崎村は海賊の中心地とされた(日本三代実録(*3))(この宮崎村は斎灘に接し海賊活動に適した越智郡波方町宮崎と推定されている。)。かって栄えた王朝国家の威令も弱まる中で、政府支配層に大きな衝撃を与えたのは、前伊予掾(いよのじょう)(伊予国司の三等官)藤原純友の乱(936~941年)であった。すでに関東では、承平5年(935年)平将門が王朝を揺るがす反乱を起こしていたが、時をほぼ同じくした二つの反乱は世に「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」(935~941年)といわれ、古代国家における最大の反乱であった。
 藤原純友の乱は、豊後水道から速吸(はやすい)瀬戸(豊予水道)を経て瀬戸内海に入るルートの要衝にあたる日振島を根拠地に千余艘に及ぶ軍船を結集し、東は紀州・摂津から、西は太宰府に至る瀬戸内海一円を舞台とした反乱であった(日本紀略(にほんきりゃく)(*4))。一方、東の平将門の乱は天慶3年(940年)平貞盛や藤原秀郷(ひでさと)らによって平定され、続いて941年に藤原純友の乱も鎮定された。
 純友の乱の追討は、征西大将軍藤原忠文、追捕使(ついぶし)(反乱を鎮定するために置かれた臨時の官人)小野好古(おののよしふる)・源経基(みなもとのつねもと)の指揮のもとになされ、伊予国警固使(けいごし)(国司のもとで軍事指揮権をもった官人)橘遠保(とおやす)が純友を捕らえて乱が鎮定した。この反乱には、瀬戸内海の島々や沿岸各地の地方豪族や半農半漁の海人たちが加わるとともに、他方では追討する側にも加担して、乱鎮定後それぞれの勢力を伸ばしたものと思われる。藤原純友については様々な純友像が描かれているが、いずれにせよ承平・天慶の乱を契機として古代王朝国家、律令体制の崩壊が進み、次の時代を担う武士団が台頭する序幕となった。
 このように律令国家体制が緩み、政治的・社会的に変質する中で、地方においては新興武士団が成長してきた。
 伊予国では、伊予の名族といわれた越智郡の郡司越智用忠(もちただ)が天暦2年(948年)瀬戸内海海賊鎮定の功によって叙位を許され、越智氏を中心に武士団化が進み、越智氏をはじめ、河野氏・新居氏・別宮(べっく)氏など在地の新興武士勢力が台頭してきた。特に、風早郡を中心に発展した河野氏は、伊予の雄族としてリーダーシップをとり、河野氏の動向と盛衰を軸として伊予の中世史が展開されていった。


*1 景戒が著した日本最古の仏教説話集で、822年ころの成立。
*2 醍醐天皇の命で弘仁・貞観式と合わせ律令施行細則をまとめたもの。 927年完成。
*3 六国史の一つで、清和、陽成、光孝三天皇時代の歴史書、901年成立。
*4 神代から後一条天皇までの六国史や記録をまとめた歴史書、平安末期成立。