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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)瀬戸内海の製塩業と伯方塩田

 塩は人間の生活に欠くべからざるものであり、製塩は古代・中世には日本全国で行われていた。しかし製塩方法が古代の藻塩焼(もしおやき)法による土器製塩から、揚浜(あげはま)式塩田へ、さらに近世(江戸時代初期)からの本格的な入浜(いりはま)式塩田へと発達していくに伴い、製塩業は瀬戸内海に局限されたものとなっていった。瀬戸内の各地は塩を特産として全国に流通網を広げ、製塩業の利益が瀬戸内の経済を潤(うるお)し、海岸部各地の主要産業となっていた。
 愛媛県内においても、明治35年 (1902年)には、波止浜(はしはま)塩田(現今治市)・多喜浜(たきはま)塩田(現新居浜市)等の大規模なものから、中小規模の塩田を含めると、27の塩田(約360ha(⑦))が存在した。このように瀬戸内海に入浜式塩田が発達したのは、瀬戸内海が非常に干満の差が大きく(約2~3m、日本海側では0.2m、太平洋岸で1~1.5 m)降雨量が少ないという好条件による(⑧)。しかしこの長い歴史を誇る瀬戸内海の塩田風景も、昭和46年の政府の「塩業近代化臨時措置法」の施行により、全塩田が廃止されることで消滅した。
 本項では越智郡伯方(はかた)町の古江(ふるえ)・瀬戸浜(せとはま)・北浦(きたうら)塩田を扱う。この3塩田の面積をあわせると(昭和29年において) 76.1haで(同年の面積は波止浜塩田54ha、多喜浜塩田95ha)県下で2番目の大規模塩田(⑨)であった。波止浜塩田、多喜浜塩田が、それぞれ昭和33年・34年に廃止となった後も、伯方塩田は昭和46年の全面廃止まで、県下で唯一の大規模塩田として存続した。また塩田廃止後も、後述の「伯方塩業株式会社」「伯塩(はくえん)産業株式会社」がニガリを含んだ特殊用塩の製造販売を行っている。そこで瀬戸内海の島々の主要産業であった製塩業・塩田労働を代表するものとして、伯方島の塩田の人々の生活文化を、ここに取り上げることにした。特に昭和に入ってからの塩田労働者(採かん部門)の人々の生活と労働の変遷に焦点を絞って、記述を進めていくこととしたい。なお一般にはわかりにくい塩田労働の作業手順や、伯方塩田の歴史的変遷について簡略ながら触れるとともに、塩田の労働用語等については、(各地域の特色があることから)伯方における調査対象者の言葉を、そのまま採録するように努めた。

 ア 伯方塩田の位置と構成

 図3-5-12からわかるように、昭和30~40年代まで越智郡島しょ部には多くの塩田があった。中でも伯方塩田が最も大きなものであったが、大島浜子(おおしまはまこ)(大島出身)の各地への出稼ぎも非常に有名で、浜子で得た資金をもとに塩田所有者となる者も多かった。伯方塩田は図3-5-13に見るように、「古江浜」「瀬戸浜」「北浦浜」の3つの浜で構成される。
 「古江浜」は1~23番浜・23塩戸・約43ha、「瀬戸浜」は1~12番浜・12塩戸・約22ha。「北浦浜」は1~6番浜・6塩戸・約11ha)であった(⑩)。

 イ 伯方塩田と全国の製塩業の沿革

 製塩業の労働を大きく分けると、「採(さい)かん(鹹)」作業と「せんごう(煎熬)」作業の二つより成り立つ。採かん作業は塩分濃度3度の海水を、種々の作業を通じて蒸発濃縮し、ボーメ比重計による塩分濃度15~23度近い「かん(鹹)水」にするためのものであり、揚浜式から入浜式、そして流下式から最終的に現在のイオン交換樹脂膜(こうかんじゅしまく)法に発達してきたものである。またせんごう作業は、「かん水」を煮つめて蒸発させ塩にするためのもので、石釜から鉄釜さらにST式平釜から蒸気利用ST式へと発達・効率化していき、最終的に真空式蒸発法による大規模機械製塩へと発達してきた(⑪)。表3-5-1は、その変遷の推移をまとめたものであるが、その近代化の過程は、同時に生産効率の悪い塩田の整理=廃止と、塩田労働者(浜子(はまこ))の人員削減とに不可欠に結びついていた。伯方の塩田は、表3-5-1及び図3-5-15からもわかるように、各時期においての技術革新に乗り遅れることなく、種々の改善・技術導入により生産を向上させ生き延びてきたわけであるが、それも昭和46年のイオン交換膜法転換による、塩田の全面廃止で終わりをつげた。

 ウ 入浜式塩田のしくみと労働内容

  ① 入浜式塩田の構造

 入浜式塩田は、塩田の地盤表面が満潮の海水面より低くなるように造り、樋門(ひもん)を開くと中に海水が流入し、その海水をさらに各浜溝(ほまみぞ)に流入させ、塩田全体にゆきわたらせる。塩田では元の地盤(砂地が多い)の上に、張土(はりつち)を10cmばかり敷き、その上に薄く撒砂(きめの細かい砂)をまく。張土は、細かい粒子の砂に荒土などを混入したもので、浜溝の海水が張土にかかるような高さにすると、海水は毛細管(もうさいかん)現象で張土の表面に上昇していき、最上部の撒砂(さんしゃ)に塩分が付着する。この撒砂を集めて四角の箱状の沼井(ぬい)に入れ、上から海水を注ぎこんで撒砂の塩を溶かし、「かん水」を取るのである。
 伯方では「浜溝」のことを『潮(しお)まり』と呼び、また海水溜(だま)り(他地域では「潮まわし」や「まる」の呼称」)を『ダボ』と呼ぶ。伯方塩田において、「張土」は伯方の土と使用済みの撒砂を混ぜ合わせて、3寸(約10cm)の厚さで元の地盤の上に敷く。撒砂は多喜浜の海底から取った、さらっとした砂を使う。撒砂を「いれがい」と呼ぶ。
 1塩戸(=○番浜)の構成図をみると、伯方では10~25の沼井からなる長方形の一続きの平面を『地場(じば)』と呼び、3~5の「地場」を合わせて、一つの浜=1塩戸を構成する。1塩戸に責任者が1人おり、製塩作業の全て(後には採かんのみ)を監督し全責任を負う。伯方ではこれを『浜大工(はまだいく)』と呼び、浜大工は数人の浜子とともに労働をする。天候や干満の変化に対応するため、浜大工・浜子は、浜にある『浜子小屋』に寝泊まりすることが多かった。また、合同機械製塩(蒸気利用ST式や真空式)になるまでは、「せんごう」作業は各塩戸にそれぞれある「釜屋(かまや)」で行い、鉄釜(以前は石釜)で昼夜「かん水」を煮つめて塩を作っていた。

  ② 採かん作業の内容

 次に、日本専売公社四国支社発行の「塩田のおもかげ(⑭)」及び波止浜興産発行の「波上浜塩業史(⑫)」の写真を参考に、以下に入浜式塩田の作業内容をまとめた。なお作業名・道具名は、伯方塩田で使われていた言葉を記している。

   一 浜引き
     伯方では『手引(てび)き』(他地域では『万鍬(まんぐわ)』)で浜を引いてならし表面積を増やすために行う作業で
    ある。毎日必ず行い「大ナバイ」「小ナバイ」「タテビキ」「ヨコビキ」「三台ゴシ」等の種々の引き方を使いわけ
    る。表面と下の土を混ぜ合わせ、撒砂を入れ換え固まらないようにし、表面積を増やして乾燥を助け、塩分の付着を促
    す作業である。

   二 潮かけ
     『潮(しお)かけ杓(じゃく)』で、「潮まり」(浜溝)の海水を撒砂の表面にかける作業である。この打ち水により塩
    分を添加するとともに、呼び水として毛細管現象を促進させる。

   三 浜寄せ
     『寄(よ)せ板(いた)』により、寄(よ)せ子(こ)(この作業のために臨時に雇われる女性)が、塩分の付着した撒砂
    を、沼井の周辺に寄せ集める作業である。これは『持(も)ち浜(はま)』と呼ばれる、採かんをする地場のみ行う。

   四 すくいこみ
     『すくいこみ鍬』(他地域では「入(い)れ鍬(ぐわ)」と呼び、木製の大きな刃板が特徴)により、三の「浜寄せ」に
    より集められた撒砂を、沼井の中にすくいこんで入れる作業である。真昼時に行い、多量の濡れた砂を持ち上げるた
    め、(特に夏季には)最も辛い作業となる。

   五 沼井踏(ぬいふみ)
     四の「すくいこみ」により沼井に入った砂をならす作業である。この後「あてこ」と呼ばれるわらを編んだものを撒
    砂の上に置き、海水を注入しても土がほぐれないようにする。

   六 上げ水[水を上げる]
     五の「沼井踏」の行われた後に、「潮まり」(浜溝)から汲んできた海水を注ぐ作業である。
     (これより前に前回「かん水」を取った後に滴下した希薄な二番水を「モンダレ」として、先に撒砂にかけておく。
    それで不足する量の海水を注入する。)
     これにより撒砂に付着した塩が溶かされて「かん水」ができ、沼井の下部にある「モンダレツボ」と呼ばれる下穴に
    「かん水」が溜る。浜大工が「ブダメ(ボーメ)」と呼ばれる比重計で、塩分濃度を計った後、樋(ひ)を通じて「かん
    水」は「かん水槽」に送られる。

   七 かぶ土ふり
     「持ち浜」が終わった地場に、前々回使用して後に沼井の回りで乾燥させておいた撒砂を、『ふり鍬(くわ)』で均等
    にふりわける作業である。
     [なお「持ち浜」をする日の早朝に『平鍬(ひらくわ)』(沼井掘り鍬とも言う)で前回「かん水」を取った微砂を
    掘って、沼井の周辺に積み上げておく作業を行う。これを『沼井掘(ぬいほり)』と言う。]

  ③ 採かん作業の手順

 伯方塩田では、浜大工は「地場」を図3-5-18に見るように3つに分けて、3日でそれが一巡し、3日目に「持ち浜」において採かん作業を行うようにしていた。もし途中で雨が降った場合には、「起(おこ)し浜」と称してまた最初から「浜引(はまび)き」を行い土地を乾燥させて、作業をやり直すのである。晴天が続いて作業が順調な場合には毎日、浜の地場の3分の1を「持(も)ち浜」とすることができるわけである。表3-5-2は「持(も)ち跡(あと)浜」「中持(なかも)ち浜」「持ち浜」のそれぞれの作業手順を示したものである。

  ④ 「浜引き」の方法

 前述の「浜引き」は、撒砂の乾燥と毛細管現象を促す重要な作業であり、決まった引き方がある。これ以外に「二台ゴシ」「三台ゴシ」を、土地が湿っている場合に行うが、通常の作業ではないためここでは省略する。

 工 流下式塩田への転換

 伯方塩田では、昭和29年より32年の間に、採かん方法が入浜式から流下式に完全に転換した。流下式塩田は、流下盤(りゅうかばん)と枝条架(しじょうか)で構成される。流下盤において太陽熱により水分の蒸発を促し、枝条架において自然に吹く風を利用して空気蒸発を促進させ、高濃度の「かん水」を得るものである。流下式は入浜式に比べ、それほど天候に左右されず「採かん」を行うことができ、また労働量は入浜式塩田の10分の1ですむ(1ha当たりの労務者数は、入浜式の2.2人に比べ流下式は0.5人で4分の1となり、しかも軽作業でよい)。さらに単位面積当たりの生産力は、入浜式塩田の2.5倍から3倍と飛躍的に増加する(⑪)。ここに江戸時代より、人力と天候に全面的に依存してきた入浜式塩田は終わりをつげたのである。

図3-5-12 伯方島周辺の塩田(明治末期~昭和34年)

図3-5-12 伯方島周辺の塩田(明治末期~昭和34年)

「愛媛県史 地誌(総論)(⑦)」の記述をもとに作成。

表3-5-1 伯方塩田関係年表

表3-5-1 伯方塩田関係年表

「伯方町誌(⑩)」「講座日本技術の社会史(⑪)」「波止浜塩業史(⑫)」より作成。

図3-5-15 伯方塩田の塩生産高

図3-5-15 伯方塩田の塩生産高

「伯方町誌(⑩)」記載の伯方塩業組合数値より作成。

表3-5-2 入浜式塩田採かん作業手順(春夏の時期で、浜子3人の中浜を基準)

表3-5-2 入浜式塩田採かん作業手順(春夏の時期で、浜子3人の中浜を基準)

~は浜大工がやる作業、「へりかき」とは潮まり周辺の固着している撒砂を砕く作業。

図3-5-18 地場の分け方

図3-5-18 地場の分け方