データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(5)生名村から大阪へ、造船所経営者として

 **さん(明治35年=1902年生まれ、89歳)越智郡生名(いきな)村

 生名村出身者は、明治時代より船員、また大阪での泥船(どろふね)等で多く活躍していた。**さんも、島外での活躍者の一人として大きな足跡を残されたが、ここでは昭和初期の木造船建造、造船所経営の変遷についての内容をまとめてみた。

 ア 修業時代

 「私の小学校時代の同級生で百姓をするものは少なかったですな。多くが船員や大阪で泥船の経営をやったり、出稼ぎに出たりで、私等のように船大工になったり、日立造船所の前身である大阪鉄工所に入った者もおりました。私は尋常小学校を卒業すると、村内の造船所に年季奉公に入りました。職人は7~8人おったですか。当時生名村で船大工が30軒ほどありましたか。生名出身者が、泥船や石炭船で多く活躍しとった関係だと思います。生名におっても食べていけんからと、若いころから大阪に行くつもりでおりました。そこで20歳になって年季が明けるのを待ちかねて、新居浜にちょっとおってから、大阪に出ました。ひどい不景気の時代で、親方も喜んで出さしてくれました(大正11年=1922年ころ、第1次世界大戦後の戦後不況は大正9年=1920年より)。」

 イ 造船所を経営して

 「当時(昭和2年=1927年前後)、大阪の毛馬(けま)町には、生名出身者が多く住んで泥船の経営をしとりまして、その船を造ってくれんかということで、毛馬に最初に住みました。船を造るのにどうしても広い場所がいるので、無断で空き地を使って造っとりました。そうしたら地主がうるさいのと、やくざがたかりにも来るので、一時形だけですが、やくざの組にも入っとりました。今時のやくざと違い、何か事があったら守ってくれるところはありました。
 その間私も必死で土地を捜したんですわ。泥船も景気が悪くなってきたので、(大阪)築港(ちくこう)の方にでようと思うたら、都合よくつぶれた造船所がありまして、それまでに貯めた資金で百坪ほどの土地を正式に借りて、自分で2本レールも敷き、ドックを造りました。昭和5年(=1930年)ころやったです。その少し前に女房ももらいまして、造船所に小遣いをせびりにくる者も多くて、やくざの組を抜けたいと思いよったら、組長が殺されて、うまいこと組を出ることができました。そのおかげで思い通りの仕事もできるようになり、港周辺にも所(ところ)の者(生名出身者)がたくさんおりまして、その人等のはしけ船等の修理をやったのがきっかけで、人気をとるようになりました。このころからしばらくは、だいぶ儲けさしてもろうたですよ(昭和7年=1932年以降は満州事変後の景気回復期にあたる)。
 うまいこといっとるという評判を聞いて、生名島・弓削島・岩城島の方から、何人も私を頼って出てきまして、働いてもらいました。当時大阪には生名出身者が本当に多かったです。やはり所(地元)の人の方が気心も知れて安心できますわな。造船所の横に家を借りて住み、二階には住み込みの職人を住まわせました。多い時で7~8人寝泊まりしよったですかな。通いの大阪出身の者もいました。」

 ウ 戦時中のこと

 「昭和16年(1941年)に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まって、企業合同で安治川(あじかわ)沿いの16軒余りの造船所を1ヶ所に集めてしまい、私とこは隣の三谷(みたに)造船所と合併して『港湾(こうわん)造船所』の名称になりました。若い者は全部徴兵されてしまい、徴用で5~600人ほど工場に来ました。妻や娘等は毎日その人等の炊事の世話で大変やったようです。徴用の人の多くは、家大工や桶屋(おけや)・建具屋(たてぐや)でしたが、船大工としてはあまり使いものにならず、かえって大変な面が多かったですよ。海軍の暁(あかつき)部隊(広島)の250t型の木造輸送船の建造を、7~8杯請け負ったです。
 昭和20年(1945年)の3月に最初の大空襲があり、軍需工場地帯だということで、初めから狙い撃ちで爆撃を受けました。浜(の工場)も、事務所も家も全部焼けてしまいまして、人もかなり死んだですよ。請け負っていた暁部隊の船は、第一団の数杯が出たばかりで、いよいよ第2団が明日出発じゃという時にやられました。この時に船の図面も全部焼いてしまって、後で苦労しました。不思議に家族は全員無事だったですが、このままでは危ないというので、家族で生名に戻りました。」

 エ 戦後の造船業の変遷

 「戦後、大阪府が川を広げるというので、同じ安治川筋の福崎(そえざき)に転居しまして、再び造船所を始めました。復興が進むとともに注文も増えてきましたが、30年代に入ると鋼船が主力になってきて、私も昭和35年になって初めて鋼鉛を造ることになりました。それからはもう、新造船は鋼船が中心でしたな。鋼船については全然知らんもんですから、図面も全部外注して、鉄工関係者をたくさん雇ってやっていくようになりました。
 昭和42年ころには生名に戻っとったと思います。次男に造船所は任せたんですが、(鋼船建造との共通点が多く、また造船不況もあって)今は東和工作所という名前で、鉄工会社に切り換えとります。戦後以降は、家族を生名に残して大阪との間を行き来しとったんですが、三男と娘婿は生名に住んで、因島郵便局と日立造船所に勤めとりました。
 生名に帰ってきてからも、小屋を建てて釣船やみかん船を造ったりしました。まだ大阪の泥船も時々造りよりました。昭和53年に、娘婿の(日立造船所からの)退職に応じて最後の釣船を造りました。その時はもう護岸工事で岸がコンクリートブロックで固められてしまい、船を下ろすのに大変苦労しました。その後はそういう事もありまして船は造らず、昔造った泥船の模型を造ったりしておりました。最近は体も思うように動かなくなって、のんびりと毎日を過ごしております。」

 オ 船造りへの思い、海の民俗

 「私が主に造ったのは、川船、泥船(砂船)、はしけ船、雑貨船等です。雑貨船も本船からの瀬取船(せどりぶね)(本船の荷物を陸まで運搬する)が多かったです。はしけの改造船も多くて、これは原材料費がいりませんから、儲けが大きかったですわ。
 今まで楽しかったこというてもそんなにありませんな。板付け(外板付け)から進水式まで順序よくできるんが一番楽しみでした。一番困るし辛いんは火災と事故です。事故は足場と道具が肝心です。けがが一番怖いので、毎日晩が来たらほっとしよりました。また造船所はたき火や物を燃やす作業が多く、また材木が一杯あって火の回りが早いんで、浜を持って(造船所の経営を始めて)から、毎晩何回も浜を歩いて見回りました。一度火災はありましたが運よくボヤですみました。
 名前が通ってきたら、注文は自然にきよりました。とにかく信用を得ることが肝心で、まじめな職人が2~3人おってくれたら言うことはないです。一つの仕事を請け負ったら気が張って、納期に間にあうまでは、何かしら気にかかってしようがない毎日でした。私の一生はそういう日々の積み重ねでした。
 鋼船を造る時も、船霊さんは祀りました。やはり船頭さん(航海士)は縁起をかつぐものです。また明石の赤穂にある(赤穂浪士の)大石良雄を祀った白幡(しらはた)の観音さんにも、新造船の時は必ず御祈禱を受け、御札をもらってきたもんです。遭難の危険がある時に、白旗をあげると助かると船頭の間で言われとった関係じゃないでしょうか。」


 泥船で働いて=船大工補論

 **さん(明治43年=1910年生まれ、82歳)
 **さんは、戦前に大阪で泥船(=砂利運搬船)を経営してこられた。その体験は出稼ぎが生活上大きな役割を占めていた、越智郡島しょ部の人々に共通するものがあると思われる。また**さんの造船所経営とも深く関かっているため、船大工の調査の補論として、聞き取りの内容をまとめた。
 「私は高等小学校卒業後(大正14年ころ=1925年)、父と一緒に東京に行き働き始めました。父はずっと船乗りでしたが、当時東京は関東大震災(大正12年=1923年)の直後で、震災後出てきた廃材を船に積んで、埋立て地等に運んでいく仕事でした。田畑が少なく食べていけないため、当時生名にはそのような船員関係の仕事をする者が多かったです。船は本船(幹線航路の大型船)に積んで持っていきました。その後、職をいろいろ変わりましたが、昭和8年(1933年)から大阪で泥船の仕事を両親が始めた関係で、私もそちらに移りました。結婚も大阪で、昭和15年(1940年)までおりました。
 当時大阪の毛馬には、生名村が移ってきたほど、たくさん村の出身者がおりました。多くは船を家にして生活してました。泥船は図3-5-11のような構造になってました。長さは5間半ほどで10tほどの船でした。いつも砂を積むため、甲板もすのこ(甲板代わりの板)もなく、雨が降ったら船内に水が溜まり、そんなときは『すっぽん』と呼ばれる竹のポンプで水あかを汲みだしました。私が大阪に行った最初のころは、まだ帆船でしたが、昭和8年ころから動力船になってきました。**さんはこの泥船から、やがて主にダンベ(=段平船(だんべいせん)、船荷の積替えを行う瀬取船)の建造で成功してました。図のような船で、枚方の手前の淀川の砂を(大阪)築港(ちくこう)や堂島(どうじま)等の工事現場まで運ぶのが仕事です。砂のたくさん取れるいい場所は決まっていて、場所を取るために朝の4時には起きて、川砂採集許可伝票をもらうための順番を取りに行き、受付が8時からで、伝票をもらったら競走で、砂の取りいい場所に向かいます。
 農家で使う『ふりどろぐわ』のような(ただし重いためカシの柄でしたが)『じょれん』という道具で、渡り板を船外に出しそこから川に身を乗り出して、水深4mばかりの川底の砂をすくい、引き揚げます。重さ20kg以上はあったでしょうか。水面まではそうも感じないのですが、水面から出るととたんに重くなります。太ももをてこにして、半円を描くような形でじょれんを振り回し、砂を船内にほうりこみます。当然水が全身にかかり、びしょぬれになります。夏はまだいいのですが、冬には本当に辛い労働でした。多くは夫婦二人連れでやりますが、1人でやれば晩の7・8時までかかる仕事でした。これを3~4時間続ければふらふらになってしまいます。手にたこが毎日できて、かみそりでたこを切るのが日課でした。男の私にとっても限界に近い労働でしたから、妻にとっては、もっと大変だったでしょう。船一杯で10円の手間賃をもらいました。昼過ぎに工事現場に着いてからの荷役も私等の役目で、堂島等には『うま』と呼ばれる船舶の停泊・荷役のための階段があり、引き潮の時は10m近い高さで、ここを天秤棒でかついで持ち上げるのもまた大変でした。
 妻がしばらくして体を壊したため、生名に帰る前の1年ほどは京都と大阪を結ぶ砂の運搬船に代わりました。無動力で、上りはタグボートで引っ張ってもらい、帰りはさお1本で(櫓(ろ)もありましたが)流して帰ります。淀川は水流が常に変わり、浅深の見極めが難しいので、これもなかなか熟練のいる仕事でした。
 昭和15年ころから、日立造船所が発展してくるとともに、生名に帰って来る人が増えました。私も15年に帰ってきて、最初は日立造船の塗装工をしてましたが、やがて目立造船の勤め人を運ぶ渡船(とせん)の仕事に代わり、定年まで勤めました。今の砂利運搬船は全部動力ポンプでやってしまいます。昔の泥船の仕事を知るのは、皆80~90歳の者ばかりです。昭和50年代からの造船不況とそれによる日立造船所の新造船部門の撤退で、生名もまた変わってきましたが、自分の故郷でもありますし、これからは地域のために少しでも何かを残していきたいと思っております。」

図3-5-11 泥船構造図

図3-5-11 泥船構造図