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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)和船の伝統技術を継承して

  **さん(昭和7年=1932年生まれ、59歳)越智郡伯方町伊方

 ア 修業時代から独立まで

 「終戦の年には小学校(国民学校)6年でした。15歳から2年ほど大阪におったんですが、食糧難でどうしようもなく伯方に帰ってきて、ぶらぶらしよってもいかんからと、父が『決めてきたから明日から行け』と言うので、伯方の福羅(ふくら)造船に勤めだしたんです。昭和25年ころになりますか。通いの徒弟として、もちろん給金は無しで、自転車のタイヤを切ったぞうりをはいて、毎日通いました。入ったばかりのころは何にもわからんで、親方が『手鋸(てのこ)で木を半分に割れ。』言われたら『へい。』と答えて、言われた通り動くだけですわ。『ちょっと見せてみい。(これじゃあまり切れんから)鋸の目立てるけん見よれ。』『これでやってみい。』と、とにかく身をもって習う式でした。そんなのが当分続きました。
 当時は工場長を『浜棟梁(はまとうりょう)』いうて言よりましたが、浜棟梁がそのうち『あんな(あいつ)にカンナを貸してやれ。』とカンナを持たしてもろうて、それも最初は切れようが切れまいがごうごうやるだけの式でしたが、周りを見てこう研(と)ぐんじゃのうと仕事を少しずつ覚えてくると、親方がぼちぼちと道具を買いそろえていってくれるわけです。給料無しですが、自分でも、盆正月に親方からもらう小遣いと家の小遣いを半年貯めて、銘のついとるええ道具を一つ二つ買うたりもしました。お前は道具道楽じゃのうと笑われましたが。日曜の休み等は当時なかったですが、節季や雨の日の休みなどは、他所の造船所に船造りの様子を見に行きました。現場を見るのが一番勉強になるんです。従弟に入って4年過ぎて、年(年期)を明けてもらい、それから7分賃(一般の職人の7割の賃金)をもらうようになりました。その後2年勤めてから同じ伯方の渡辺造船に移ったんですが、そのきっかけもいつものように船を見に行っとったら、そこの社長が『お前ぜひうちに来い。』と誘われたからです。『修業に出てこうか思うとるんじゃが。』と福羅の社長に話しますと、簡単に許してもらえました。
 新しく移った時に給金をいくらにするかと言われましたが、仕事を見てもらって賃(金)をくれたらいいと言うと、1か月経ってかなりの給金をくれて、私の仕事もこのくらいの価値が出てきたんかと初めて思いました。渡辺造船に入った当時(昭和30年ころ)は、木造船から木鉄船に代わりつつあるころで、これはひとつ図面も習わんといかんいうことで、あっちこっちで聞いて回り、『原図法』とかいう本も無理して買って、正規に習った者は誰もおらんのやから、ほとんど独学に近いような形で勉強していきました。皆プロやから見る方は分かるんで、できた図面を親方等に見てもらうと、荷をようけ(たくさん)積むには、ここを張らさんといかんとか、スピードを出すにはこうだと、今度はこういう船をやってみるかということで、渡辺造船で1~2回図面を引きましたか。そうこうしよって4年ほど経った時、元の福羅造船の親父さんから、今度大きい船を造ろうと思うんじゃが帰ってこんかということで、古巣に逆戻りしたわけです。昭和34年ころですか。
 帰ってから図面を何枚書いても親方に気に入ってもらえんで、十何枚目かに『よっしゃ、これでやってみるか』ということで、私等の所の木船としては最大級の500t積みの木船を造ることになりました。今の船と比べたらちゃちなものかもしれませんが、その船の材料いうたらおびただしいものでした。社長が山陰から中国路一帯を駆け回って(材料を)集めて回り、それらの材を海路で持ってきて、満潮時に皆で材(木)を引っ張ってきて、全員でロープをかけて運ぶんです。グレン(クレーン)も何もなくて、人力だけですから擦(す)れて肩の方から血が出よったですよ。外板を付けていく時はもう戦争みたいなもので、蒸気の炉で木を蒸して、木が冷えんうちに万力で締めて曲がりをつけて、ボートーと縫釘(ぬいくぎ)を打っていかんといけませんし、うまく曲がらん時は油をかけてバーナーで熱して直す時もあります。外板を打ちつけるとともに、船内で外板どうしを結ぶ流通材を同時にぬいつけないといけませんから、本当に目が回るあわただしさです。甲板張ってブリッジつけるころにはやれやれという感じでした。とにかく若いから、がむしゃらにやっていました。」

 イ 独立してから現在まで

 「奥さんが亡くなられて社長も気力がやや衰えてきて、大きな船にあまり取り組まなくなったのと、自分一人で思い通りの船を造ってみたいという思いもあって、昭和35年に独立しました。ちょうどそのころ、生活が安定してきたせいか釣伝馬(つりてんま)がはやってきまして、まだ造船所におる時に一杯造ったら、これはええというので注文がぼつぼつきはじめたので、独立しようという弾みになりました。社長の土地を分けてもらって、作業用の建物は自分が釘を打って建てました。それを、今もって使っとりますが。和船の小船はあまりやったことがなかったんですが、全体の構造は分かりますし、後は勘と船の基本を知っとることが大事です。船の基本というのは、エンジンの馬力が何々だから、(船)幅の一番広いところが5尺ならば、それに対する艫(船尾)のしぼりは7掛け半の3尺7寸程度にするというようなことです。とにかくいい船を造りたいということで、あっちこっち教えてもらい、船も見に行き毎日が勉強でした。後は自分が造っていって、いろいろ試してみて改良していきました。
 昭和40年を過ぎたころから、ここらの造船所が鋼船をどんどん建造しだして、それに法律上からもコーツウテン(交通伝馬船?)という伝馬船がいるわけです。ある造船所の仕事を請け負って造ったところが、ここら中の造船所から全部注文が来だしたんです。釣船ブームも続いとりまして、昭和54年ころの一番忙しい時やったら、最高に造った月は5杯やったでしょうか。それは1月だけですが、普段でも月に3杯は造りました。まあ一杯造るのに普通は1か月かかるんですが、鋼船等の場合は進水が決まっとるので、それに間にあわさんといかんこともあり、とにかくがむしゃらにやりました。その当時は、若い衆も一人おったのでできたんですけれども、それでも夜中に墨を引いとって、昼間カンカン打つわけです。子供等の印象からしたら『父ちゃんはいっつも働いとる。』ということしか残ってないようです。以前娘が子供を連れて里帰りした時も、『夜中に船から見たらまだ灯がついとる。まだ仕事ばかりしよる。』と言われました。そのころは正月一日から仕事をしたことも多かったです。独立したころは、自分だけで商売して食べていけるんかという不安もありましたが、世の中が不景気になって、プラスチック船が出てきても、ここらあたりに木造の小船を造っとるのは私だけだったのと、まあある程度の評判を得とったせいか、それほど大きな問題はなかったです。それと一人だけでやってきて小回りがきくということもあったでしょう。」

 ウ 木造船に対する思い

 「今は、体を悪くしたこともあり、注文も以前よりは減ってきたので、2~3か月に一杯くらいの割で、木船を造っています。一昨年(平成2年)の国民文化祭でも、愛媛県と宮窪町からの依頼で『水軍レース』に使用する水軍船を造りました。500年前の船といってもピンとこないし造ったこともないので、その時も山陰や金比羅神社、大山祇神社等に行って、いろんな船を見、本当に勉強しました。元東大教授の方の御指導も得て、当日にその方が『立派なのができた。私が思うとったようなものができた。』と言ってもらった時には、本当に嬉しかったですね。
 何十年と木船を造り続けてきて、一杯一杯が全部違います。同じ山から取った木でも、粘(ねば)い木もあれば柔らかい木もある。一本の木でも南側と北側では木の質が違うて、思うように曲がらんですから、本当に木は生き物じゃと思いますね。木を付けていく時に、曲げるだけじゃなくて、ねじくらんといかん(ねじ曲げなければならない)。手間かけて木を割らんようにして、うまくいかん時は、ようこんな難しい仕事を習うてしもたもんじゃと思うて、夜中でも首をひねって考えることもあります。死ぬまで勉強を続けて、ほっとすることはないでしょう。趣味というても、家の小さな畑を耕したり、盆栽作りと自分の造った船の試運転を兼ねた釣が気分転換になるくらいです。体をいたわりよったらいいものはできんかったんで、とにかく人より倍の手間をかけても、喜んでもらえるいい船を造りたいという気持ちで、今までやってきたです。
 プラスチック船は、確かに手間がかからず丈夫ですが、紫外線に弱く、私から見ても10年経ったらもろくなってきます。木船も手間さえ怠らんかったら30年は持ちますし、何と言っても乗って楽じゃし温かみがある。それに安定性が抜群で振動が少ないし、潮にもそれほど流されんから、いい点が多いですよ。プラスチック船のメーカーから、下請けになってくれんかと頼まれたこともありますが、人が設計したものを造ってもどうならい(どうにもしようがない)という気持ちが強く、断りました。あとつぎがおれば考えも変わったんでしょうが娘ばかりで、今は自分が思うような船を造り続けていきたいと思うだけです。」