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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)親子二代の職人気質

 越智郡宮窪(みやくぼ)町余所国(よそくに)
 **さん(大正5年=1916年生まれ、75歳)
 **さん(昭和25年=1950年生まれ、41歳)親子

 ア 徒弟からたたきあげた父

  ① 年期奉公をしての修業時代

 「私は伯方島の出身です。伯方は平野が少ないこともあって、職人や石工、塩田の浜子になる者が多かったですが、私も高等小学校を卒業してすぐに、伯方の枝越(えだごし)にある渡辺造船に、社長が親戚である関係もあって、弟子入りしました。15歳の時ですから、昭和5年(1930年)ころやったですかなあ。年期奉公の住み込みですから、給金は一銭もありません。そのころは、夜が明けきらん内に起きて、職人の人らの道具箱を出して、たき火をおこして先に待っとりました。皆が来るまでには、カンナを研(と)いだり鋸(のこ)の目を立てたりしますし、職人さんが来てもたき火の前に行ってあたるなどいうことはありませんでした。終わるのも今のように時間が決まっとるわけじゃなし、夜8時過ぎまで仕事をして道具を手入れし、その後も職人がやれ相撲をしよじゃの、腕相撲の相手をせいじゃのいうて、とにかく体は鍛えられました。船おろし(進水式)をして、50銭の祝儀もろたら、やれうれしやのうというので、映画に行くぐらいが楽しみでした。
 私等が弟子に入ったころは、ちょうど和船から洋型(ようがた)(西洋型船)に切り替わる時期でした。私も和船をちょっとは造りましたが、これからはホンガタ(西洋型船、本型と書くか?)じゃないと、手間がかかってどうもならんということで、洋船を中心に造るようになりました。洋型だと図面(設計図)を引いてやらんといかんのですが、男として仕事をするからには責任をもった仕事をしたいということで、仕事が終わった後、夜中に丹前と毛布をかぶって、必死で勉強しました。誰かに教えてもらおうとしても、それくらい自分で考えてやれと怒られるのがおちで、自分で木江(広島県大崎上島の造船中心地)に行って本を買うて、独学で我流の勉強を続けました。その甲斐もあって、20歳前には原図も引いて仕事を任せてもらうようになりました。最初は理屈しか知らんからろくなものはできんかったですが、一杯二杯と造るうちに腕も上がってきました。しかし年期明けは(どんなに腕が良くても)20歳と決まっとりまして、20歳で初めて給金をもらった時は、日給1円でした。当時酒一升80銭、たばこの『敷島』が22銭でしたか。
 昭和10年(1935年)に徴兵検査を受けて、そのまま召集になりました。中支(中国中央部)にしばらくおって、その後ラバウルからシンガポールに行き、戦局が悪うなってからビルマに行かされ、インパール作戦にも参加しました。インド国境目前からの撤退は、白骨街道じゃいうてひどいめにあいました。復員で戻ってきたのは、昭和21年(1946年)の8月です。中支におった時に、渡辺造船の息子から分厚い封筒が来まして、何じゃろうかと見たら船の図面なんです。自分で初めて引いた図面なんで、見てくれんかということだったんですが、検閲で最初は上官にスパイじゃないかといろいろ疑われ、質問もされましたが最後は納得してもらい、朱で直して送り返しました。また赤紙の来る直前に私が図面だけ引いた、当時はやっていた『ぜんまい水押(みよし)』いうて表(船首)を立てた、現在の練習帆船の日本丸のような形の船の図面について、わからないところを教えろという手紙も来て、スマント(フレーム、船の肋骨)はこう立てて、艫(とも)(船尾)のマツラ(補強材)も立てて、というように返事を出したりもしました。」

  ② 船大工棟梁から独立まで(昭和20年代)

 「復員した21年の末に結婚しましたが、船大工は時代遅れじゃし、あんなしんどい仕事はもうええ、何か他の仕事はないかと捜しよりましたが、生活に追われて結局は元の船大工に戻りました。渡辺造船のおやじさんが、今治でも工場をやるようになり、こっちにこんかということで、今治造船工場内に6年間住むことになったわけです。棟梁(とうりょう)として一杯の船の全工程を任されまして、下に5・6人の工員がつきましたか。棟梁の賃(金)は2割5分増しで、工員の賃金は社長と棟梁が話し合って決めます。これはまじめだから(賃金を)上げてやってくれと私が言うと、『わしが見よったら、こいつは作業台の上から釘箱を落としてもほったらかしで、後で足で釘を箱にほうりこみよった。職人の誇りのないやつだから駄目じゃ。』と社長は言いまして、なかなか厳しいところもあるおやじでした。
 造船所が伯方の田舎からやってきたものですから、今治の船とは格好が違っとりました。隣に村上造船というのがあって、そこでは品のいい船ができる。『渡辺造船どしたんぞ。格好の悪いどろくさい船じゃのう。』と言われるんで、なにくそと思い、あっち行っては盗みこっち行っては盗みで、あの人が原図が達者じゃということを聞いたら、おみき(酒)の一升や菓子折を下げて教えてもらい、建造中の船も見に行って勉強しました。しばらくして新造船を造った際に『今度はどしたんぞ、品がええやないか。』と言われた時には、それはうれしうてうれしうてね。また南海大地震(昭和21年)の直後でしたか。トロール船を造ることになって、私が徳島の日和佐(ひわさ)まで行って勉強してこいということで、見学に行きました。当時のことですから、米をかついで徳島まで立ち通しでした。そういう交流は船大工どうしで結構ありました。トロール船はキール(竜骨)の長さが80尺(約24m)、幅14尺(約4.3m)の、これで大丈夫かのと思うような長たらこい船でした。それで私が造ったトロール船を、試運転で来島海峡の速い潮流の所に思いっきりつっこむもんですから、恐ろしうて私は目をつむっとりました。この船は、博多から東シナ海へ漁に出ると、船霊(ふなだま)さんがチンチン鳴って、いさんで元気がええというので、船長に本当に喜んでもらいました(本章第2節1の(4)の項参照)。このころ150~200t程度の船は5人で半年以上かかりますし、経費の点からも失敗は許されんので、本当に気は使いました。
 ところが勤めていた今治造船が、昭和27年に倒産しかかったんです。それで伯方島に戻って、佐川造船に勤めておったんですが、当時幼稚園に行っとった**が(佐川造船の娘が同級でおって悔しいことでもあったんでしょうか)『父ちゃん、なんでうちは造船所持たんの。』と言いまして、自分自身も男として一国一城の主になってみたいという気持ちもあって、昭和29年に独立したんです。」

  ③ 造船所経営の盛衰

 「この大島の余所国に来たのは、当時大島石は採掘してから後は、全部船で運んどりまして、近辺にも北木(きたき)島・倉橋島と石の産地があって、石船が不足しとったものですから、ここの石工の親方達にぜひ来てくれと誘われたからです。今のこの砂浜に(進水のための)レールだけ敷いて始めたんです。一番最初に造ったのは30t位の船でしたが。
 石船の特徴は、砂浜に引き揚げたまま石を積んでいくため、とにかく大きな材木を使って頑丈に、また底が平面に近い丼のような形にするところにあります。石船が主で他には渡海船、雑貨船、小さい客船、農船(みかん運搬用)も造りました。新造船は20杯は越えとると思います。漁船は、一本釣等の小型船は和船が多く、それほど造りませんでした。渡海船は、私が造った『余所国丸』というのが、馬力は少ないのにスピードが出ると評判が良うて、近辺の渡海船の半分以上(20隻あまり)の修理も引き受けるようになりました。また社長から頼まれて渡辺造船に出向いて造った、上浦町の渡海船『朝日丸』の進水の時は、町長・県会議員さんのすすめで一番上座にすえられて、大弱りでしたが嬉しくもありました。
 職人・工員は、30年ころで20人はおりましたかなあ。ただ当時は人の余っとる時代で、雇うてくれという人がようけ(たくさん)おりましたので、(注文生産ですから、受注がしばらくなければ仕事もなしになるので)人を減したり増やしたりしよりました。船大工も心得たもので、また忙しかったら使うておくれ言うて、道具箱とふとん袋だけ持って、あちこち流れ歩く者が多かったですよ。入ってくる時に(やくざ風に)仁義を切る者もおったです。それでも原図からやろうという者は、10人に1人位で、後の9人は言われるままに動く者が多かったですが。
 昭和30年過ぎには、大島だけで中小の造船所が4~5つあって、お互いに注文の奪いあいになってきました。私も仕事を取りにいかんならん、集金もせんならんで、大変でした。手付け金をもろうて、船ができたら残りを払うてもらうんですが、中小の石工の親方や一杯船主の人らは、今は資金繰りが大変じゃからちょっと待ってくれ言うて、なかなか払わなかったり値切られたりして、苦労が多かったです。独立してしばらくした31~32年ごろは、特にひどい不景気で(なべ底不況)、造船所の経営はこのころが一番苦しかったです。海運業と造船業というのは、景気のよしあしが一番最初にでてくるところじゃないでしょうか。その後は持ち直しましたが、昭和40年を過ぎたころから、大島石もだんだんとトラック輸送が中心となって石船の需要が少なくなり、小型鋼船や(昭和50年前後からの)プラスチック船の発達で、私等のような木船の製造は、大変苦しくなってきました。今は息子が造船所をやってくれておりますが、私等のところは本当に『3K』といわれる仕事にぴったりあてはまるんで、人手を集めるのは諦めております。今の従業員は2人で、59歳と62歳ですから、私は死ぬまで息子の手伝いをしてやろうと思っとります。」

 イ 父の職人気質を受け継いだ息子

  ① 鋼船設計技師として

 「小さい頃から親父には『人間性をみがけ。人様に迷惑をかけな(かけるな)。素直な人間になれ。任された仕事は後に伸ばすな、必ず全うせよ。』と教えられてきました。本当は今治の普通科高校へ行きたかったのですが、親父がどうしてもということで、(広島県大崎上島の)『木江造船学校』に昭和41年に入学しました。親父が徒弟のころに、どうしても入りたかった憧れの学校らしいです。その夢をかなえる形になったわけですが、私の入学したころは人気がなく易しくなってました。それでも中にはどうしても造船設計をやりたいという、熱心なやつが4~5人はおりましたか。全寮制で、きついしごき等に耐えかねて、クラスで4人くらいやめました。親父に言わしたら、それも人生勉強のひとつじゃと言うでしょう。44年に卒業すると、渡辺造船が鋼船部門を拡大するから来んかということで、伯方に勤めました。とにかく仕事で人に負けるんは嫌いじゃったし、急ぎの仕事で頼まれてくれんかと言われたら、任しとけという気持ちで徹夜もようしました。船装設計で、勤めて2・3年したら1級レベルになり、自分で一生懸命働いてますから、上役にも納得できんことはどんどん言いよりました。社長が『お前の親父は職人気質(かたぎ)じゃけん、商売人にはなれんなあ。』と言いましたが、私もそれを受け継いだのか仕事一途で、生活面のどうこうや家庭のことはあまり顧みない毎日でした。鋼船の場合は構造はみな同じですから、木船のように、船一杯ごとにどこかしら違ってくるということはありません。」

  ② 造船所の後継者となって

 「昭和52年にこちらに帰ってきて、造船所を継ぎました。当時は造船不況のまっただなかで渡辺造船も倒産しかかっていたのと、親父が作業中に目を患らって、片目を手術せんといかんということで『しゃあない、帰ろうか』という気持ちになったわけです。退社する前に年収300万円はあったんですが、帰って帳簿を見たら年間売上げが900万ほどで、材料費や賃金を引いたら利益が出かねる状態でした。これで船やるいうても、飯が食えんのにどうならいという感じで、経営状態が一番悪い時でした。
 そこで遅ればせながら、FRP(強化ガラス繊維プラスチック)船をやろうということで、昭和54年に、高知の室戸に(FRP提唱者竹内化成の)講習にでかけました。その後ヤマハが標準タイプのFRP船の改造を任せてくれるようになり、それがきっかけで各種のメーカーの改造をするようになりました。改造いうてもエンジンの据付けと馬力にあわせた構造の強化、家屋だと間取りにあたる隔壁や甲板などの外装を取り扱うわけですが、いろんな船を扱うとったら、全体の仕組みがわかるもんです。肝心な点は、木造船は横肋骨やけど、FRP船は縦肋骨で構造が全然違うことです。
 それからしばらくして自分の設計した船を造るようになりました。『オス型』を造って仕上げ、抜いたものが『メス型』になって、後はそれにFRPを積層すれば、何杯でも同じものが造れます。そのかわり最初の船の評判が悪ければ、一つも売れんということになります。今修理している船(写真3-5-23参照)は、造った本人もたまげるくらい速くて、時速80kmは出るんじゃないでしょうか。この前の型の船も時速60km出て、エンジンを製造したヤマハの本社の人が(馬力から考えると)そんなはずはないということで、わざわざ確かめにきましたが、乗ってびっくりしてました。
 造船不況で、この付近の小規模のドックを持つ造船所がほとんどつぶれてしまい、不況のあいだ手を広げずに細々やってきた私等のところに、小型船の製造や修理の注文が、今はさばききれないくらいきます。私自身は営業もせんし、する暇もなく、支払は銀行振込みで、支払が悪い人は次から注文を受けんようにしてますから、今はいいお客さんばかり残っています。親父の時代から考えたら雲泥の差です。今の新造船の注文の9割はレジャー用の釣船です。新造船は今まで80杯ほど造りましたが、仕事の割合から言うと新造7割、修理3割くらいです。0.9tクラスが中心で、エンジン込みで250万円くらいです。エンジン込みのセットで、船舶検査も受けて、お客が印鑑を押しさえすればいいようにして売るのは、私等が一番早いほうじゃなかったでしょうか。昔は子供の財産にと残しよったんでしょうが、今は自分の楽しみ大事にと、手付け金なしに退職金等で代金の全額を支払う年配のお客が結構多いですね。男だけで来たら『大蔵省と相談してみんと』と言って帰る人がほとんどですが、奥さんと一緒だと間違いないです。女性の強い時代になったんですかね。」

 ウ 木造船の特性と船大工としての誇り、船の民俗

  ① 木造船建造の難しさ

 「今治造船に勤めておるころ、国立大学の造船学科を出て設計に入って来た人がおりましたが、この人の図面では全然木船にならんのですわ。社長が『あいつをほっといて、お前この船やってくれ。』と私に言われまして、私は『尋常小学校しかでてない私がそんなことはできません。』言うて断わったですが、その人は半年で会社を辞めました。木船は木に曲がりをつけていかんといけませんが、その人は絶対に外板がつかん図面を引いてしまうんですな。だから船大工にとっては、図面を引くことのできる頭とともに、木の性質とよう(よく)つきあいできる経験と勘が必要なわけです。じゃから、できる船は一杯一杯みな性格が違います。自分としては夜も寝ずに一生懸命やってみるんですが、何十杯造っても未だに満足できる船ができたことはありません。それは、あなたらの子供さんの教育でも同じことでしょう。」
 息子の**さんは次のように語ってくれた。「少しは親父の手伝いもしたけれど、とにかく私等には親父のようなえらい(大変な)仕事はできるもんじゃない。道具(電動工具)がほとんど使えんで、厚さ10cm近い、何mもある中棚の外板を、(船底部分から)下から手で支えてつけていかないかん。しかもボルト(結合させるためのねじ釘)で外板をつけるために、何百本もミリ単位の穴をキリで開けて、穴より大きめのボルトをハンマーで打ち込まなあかん。しかもその外板だけで何十枚もあるでしょう。さらに外板どうしの合わせ目の所は、全部鋸(のこ)ズリで一枚一枚引いて合わせていくんだから大変ですよ。鋼船のように各ブロックごとで造って、ピタッと合わせるようなことはできんで、少しずつこさえていくから、工程の合理化はできんわけです。グレン(クレーン)が使えんで、一つずつ人力で持ち上げて、『も少しこっち』という具合に微調整していくしかないんやから。キール(竜骨)の厚みが8寸(25cm)くらいあるのを、鋸で引くだけでも息が切れますよ。とにかく江戸時代とそう変わらん仕事です。」これに対し**さんは「まあ私等皆これでやってきたですからね。私等より下の年代の者は、じゃから皆鋼船の方に行ってしまいました。鋼船やってきた者が木造船やったら、あほらしうてやれんでしょう。『しんどい』言うて辞めてしまいますわ。」と淡々と語られた。

  ② 各地の船の特性

 「木造船の造りは所ごと(各地域)で違いがあります。一番値がいいのは岡山県の牛窓(うしまど)で、外板の弁甲材やその他の木材を、在庫として一年以上陰干しして乾燥させるので有名です。また牛窓や広島県の鞆(とも)の船は、スマートで格好がいいですな。伯方あたりで造る船は、船長が短く船幅が広くて、艫表(ともおもて)(船尾と船首)を張らして(高くして)、荷をようけ(たくさん)積めるようにして、上から見るとどんぐりのような格好です。時化(しけ)になったらなかなか前向いて行きません。しかし、そうかと言って牛窓の船をこっちに持ってきて乗りいいかというとそうでもないんで、所々の自然や使用する目的と関係して、(各地域で)船の形は違っとったもんです。ナマ船(鮮魚運搬船)は、淡路(あわじ)型が魚も長く生かしておけて乗りいいので、一番評判が高いです。FRP船ではそこまでの違いはないですが、それでも瀬戸内海と太平洋では船の形が違っとります。またメーカーの標準型でも、隔壁や外装部分等を、各地域の漁業の内容に合わせて『魚島向け』『宮窪向け』という風に改修していっとるようです。」

  ③ 船の民俗

 「最初にキール(竜骨)を置く時は、キール据えと言って御神酒(おみき)を祭って船大工が自分で簡単なご祈禱をします。船造りに関しての祭事というと、次は船霊さまを祀るのと進水式です。
 その他には、航海の神様でもあるので、毎年『金比羅さん』へお参りに行きよりました。また石船はなやかなりしころには、石船や私とこの船で、大三島の大山祇神社の春の大祭にもよく出かけました。近所の人や親戚もつれて、船に人が鈴なりで行っておりましたが、戦後しばらくしてからは海上保安庁の指導も厳しくて、そのようなこともなくなりました。

写真3-5-23 現在の造船所と修理中のFRP船

写真3-5-23 現在の造船所と修理中のFRP船

**さん製作・修理。平成3年10月撮影