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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)島々の黎明

 ア 先土器文化・縄文文化の姿

 第1節3の「瀬戸内海の形成」で述べたように、今から数万年前の瀬戸内海は九州・四国・本州と陸続きであり、大陸ともつながる大草原の盆地や湖沼であった。
 当時、ナウマン象やオオツノシカ、へラシカなどの大型動物が生息していたことは、伊予灘や燧灘の島々の周辺から漁網にかかって発見される動物化石が物語っている。
 この瀬戸内海の島々に人々が住み始めたのは、いつごろのことであろうか。2~3万年前ごろ、後期旧石器時代(わが国では先土器時代、または無土器時代とよぶ。)の人々は、これらの大型動物を食糧として生活していたと推測され、特に芸予諸島や備讃瀬戸の島々に当時の遺跡が集中している。その代表遺跡は、伯方町の金ケ崎(かんざき)遺跡であり、ナイフ形石器や剥片(はくへん)石器などが多数まとまって発見されている。愛媛県において、これほど大量の旧石器が発見されたのは初めてであり、「愛媛県の歴史は金ケ崎遺跡に始まる。上黒岩(かみくろいわ)、古照(こでら)の両遺跡とともに、戦後の愛媛の考古学上の三大発見ともいうべき重要な遺跡である。」(長井数秋氏(①))と評価されている。
 芸予諸島の旧石器時代の遺跡は、伯方町(叶浦(かのうら))、弓削町(鯨・楡(にれ)田・弓削南・高浜八幡神社)、生名(いきな)村(立石(たていし)山)、大三島町(多々羅(たたら))、上浦町(新谷)など18カ所にわたってナイフ型石器が出土している。また、ナイフ型石器に後続する約1万数千年前の尖頭器(せんとうき)や細石器も島々の各地から発見されており、約数万年前から約1万数千年前の島々の人々の生活がうかがえる。
 これらの旧石器の材質の大半は香川県産出のサヌカイト(讃岐石)であり、芸予諸島からは産出されていないことから、備讃瀬戸(塩飽(しわく)諸島など)と芸予諸島との交渉・交通があったと推測される。
 約1万2千年前から始まる縄文時代の瀬戸内海では、広域的な東西海上交易と文化交流が展開された。そのことは、大分県姫島を中心に、長野県和田峠、佐賀県腰岳(こしだけ)、隠岐島で産出された黒曜石が、石器の材料として伯方町叶浦、大三島町大見(おおみ)、上浦町萩の岡、中島町粟井坂、松山市興居島田(た)の尻(じり)遺跡など、瀬戸内海各地に分布していることからうかがえる。
 縄文時代前期から後期における大三島町大見、上浦町萩の岡貝塚遺跡や、伯方町の叶浦、熊口(くまごう)、瀬戸浜遺跡などは海岸近くに位置しており、島々の海浜に住む人々が漁撈を中心に生活を営んでいたことを物語っている。

 イ 弥生文化・古墳文化の姿

 弥生時代(紀元前3世紀ころ~紀元3世紀)になると、大陸から伝播(でんぱ)したとされる水稲耕作が九州から西日本へ拡大した。中国大陸や朝鮮半島からは青銅器・鉄器など先進的文物が移入され、縄文時代より一段と瀬戸内海の東西海上ルートの重要性が増してきた。
 島々には多数の弥生遺跡が分布し、特に、弥生中期(約2千年前)になると急増している。島々の弥生遺跡は、大別すると山頂や山腹に立地する高地性集落と、海浜に立地する臨海性遺跡に二分される。
 島々の高地性集落は、生名村立石山(130m)、岩城島積善(せきぜん)山(360m)、伯方島宝股(ほうこ)山(304m)、大三島安神(あんじん)山(260m)、鷲ケ頭(わしがとう)山(220m)、大島八幡(はちまん)山(215m)、高井神(たかいかみ)島(60m)、魚島神ケ市(かみがいち)(40m)、中島泰ノ山(たいのやま)(290m)などにわたっている。いずれも急流渦巻く瀬戸を広く見下ろす、眺望の良い山頂付近に立地しているのが、共通した特色である。しかし、これらの場所は農耕が不可能で、飲料水も手に入れがたい生活に不便な地形であるところから、なぜこのような不便な高地に集落が形成されたか疑問となる。
 高地性集落は、島々をはじめ瀬戸内海各地から畿内にかけて分布しているが、特に弥生中期後半と弥生後期前半にかけて急増する。この状況から、高地性集落は中国の史書「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)、倭人(わじん)の条」通称「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記載されている2回の倭国大乱にともなって設けられた、軍事的・防御的性格の強い集落ではないかといわれている。
 弥生中期後半は、卑弥呼(ひみこ)が邪馬台国(やまたいこく)の女王になる前の2世紀後半の大乱期にあたる。更に、弥生後期前半(3世紀半ば)は女王卑弥呼が死去し、後継者の宗女壹与(いよ)が女王になる間の2回の大乱期にあたるので、高地性集落の分布と関係が深いと考えられる。
 いずれにせよ、島々の高地性集落も広い意味の防御的な機能とともに、烽火(のろし)をあげて連絡しあう通信的機能、水先案内にあたる海上交通上の機能、更に海上祭祀(さいし)的な機能など、いろいろな役割を果たしたものであろう。
 高地性集落とともに、弥生時代の島々の遺跡として注目したいのは、海上交通とかかわる臨海性遺跡である。弥生時代中期の例としては、今日、伯方・大島大橋中継点で、急流の船折瀬戸に接する見近島(みちかじま)遺跡や大島の仁江(にえ)・赤水(あかみず)・正味(しょうみ)遺跡などがある。また、忽那諸島の中島(長師(ながし)・大浦)、睦月島、興居島の御手洗(みたらい)、鷲ガ巣(わしがす)や由利島にも臨海性遺跡が分布している。これらの島々は、周防灘から伊予灘にかけて海上ルートの中継的な位置にあり、それぞれの遺跡は、島々の瀬戸の急潮に対応した水先案内人が住み、中継港の役割を果たした臨海性遺跡と見ることができよう。
 また、燧灘に浮かぶ離島の高井神島や魚島(神ヶ市・篠塚港(しのずかこう)遺跡)にも弥生時代の臨海性遺跡がみられ、やはり燧灘における海上交通上の中継港の役割をもっていたと思われる。更に、魚島の大木(おおき)遺跡からは、古墳時代の小型の銅鏡や有孔円板(ゆうこうえんばん)(鏡の模造品)、手づくね土器など神々に捧げる祭祀遺物が出土しており、海辺における海上交通の航海安全祈願の祭祀遺跡であったことを物語っている。
 島々の古墳は全体的に小規模であり、主として6、7世紀ころに築造され、内部主体は箱式石棺か横穴式石棺が多い。箱式石棺は大三島・大島・見近島・岩城島・佐島・中島などに分布している。横穴式石室を主体とする円墳は、古墳時代後期のもので、岡村島・大三島・大島・伯方島・生名島・弓削島・中島・野忽那(のぐつな)島・津和地(つわじ)島・怒和(ぬわ)島などに分布している。なお、前方後円墳は島々から発見されていない。しかし、島々の古墳の中には、弓削島の久司山(くしやま)古墳群のように、燧灘を見下ろす稜線に位置しており、海上交通と関係が深いと思われる遺跡が分布している。
 古墳時代における島々の生産活動の特色としては、土器製塩があげられる。弥生時代から農耕生産の時代となり、食糧が穀物中心となってくると食生活上から食塩は必須となってくる。瀬戸内海における土器製塩(土器に海水を入れ、沸騰させ塩水を濃縮することを繰り返す方法)は弥生時代中期からみられるが、芸予諸島では古墳時代の初めころ、4世紀ごろからと推測される。
 島々の製塩土器は、大三島の多々羅(たたら)遺跡をはじめ伯方島・犬島・弓削島・魚島・馬島(うましま)・中島(長師)などから出土している。平成3年2月、来島大橋の橋脚建設地点付近の馬島亀ヶ浦遺跡から、3世紀から4世紀にかけての製塩土器数千点が出土した。来島海峡の真ん中に位置する馬島では、海人たちが自給用の塩のみではなく、交易上の塩を多く生産していたものと推測される。したがって、芸予諸島は備讃瀬戸地方と並んで、瀬戸内海における古墳時代の製塩の中心地であったといえよう。
 また、県下最大の前方後円墳である今治地方の相(あい)の谷(たに)1号古墳は、急潮の来島海峡を見下ろす丘に立地しており、大和政権が瀬戸内海の制海権と四国北岸沿い航路を重視したことがうかがえよう。
 更に、平成3年10月から愛媛県埋蔵文化財センターによって発掘された吉海町の火内(ひない)遺跡は、本四連絡橋来島第1大橋の大島側架橋地点で、下田水(しただみ)港の西側に位置している。この遺跡は縄文時代の晩期から中・近世まで続く複合遺跡で、古墳時代の銅鏡や祭祀用の滑石(かつせき)製勾玉(まがたま)、多数の小型模造土器が発見されている。また、製塩土器や土石製の錘(おもり)が発見され、塩業・漁業をもとに東西交通を担った貴重な海人集落と見られており、海人文化研究の上で注目されている。
 以上見てきたように、島々は歴史の黎明期にあたる先土器時代から縄文時代、更に稲作や金属器など大陸文化が流入し、国家の形成と統一が進んだ弥生時代から古墳時代において、政治的・経済的・文化的に九州・畿内を結ぶ瀬戸内海の東西海上交通ルートの中継的役割を果たしてきた。