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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(5)親子3代にわたる渡海船主-野忽那の若船主

 **さん(大正7年=1918年、73歳)温泉郡中島町野忽那在住
 **さん(昭和28年=1953年生まれ、38歳)温泉郡中島町野忽那在住

 ア 中島地方の渡海船の歩み

 芸予諸島から斎灘をへて忽那諸島へ向かうと忽那水軍ゆかりの六つの島々が迎えてくれる。無人島を合わせれば28島に及ぶ中島町である。今日の中島町への交通は、町営汽船によるフェリーや高速艇によって、高浜港から通勤・通学が可能なほど便利になった。
 中島町で初めて定期船が開設されたのは明治31年(1898年)5月であり、大浦~三津浜間に汽船が通い始めた。それ以前の海上交通について、中島町誌は、「明治31年ころまで、各集落とも島外への往来は帆船によっていた。これを渡海船(とうかい)またはチョキとも言う。おおむね不定期便であり、風波のため出帆できないことが多く、また、無風のときは一挺の櫓で漕いでいたため、乗客もこれを手伝わねばならなかった。ときには三津浜に滞在して、天候の回復を待つこともあり、ことに冬期ははなはだ不便であった。1日1回あるかなしかの船便であるから、急用のときなどは数挺の櫓で漕ぐ特船を仕立てた。これを『押し切り』と言い、急病人の入院や死者のでたときの縁者の出迎えなどに、集落内の屈強な人が頼まれていた。また、暴風のため転覆して、全員海の藻屑と消えた痛ましい記録も残っている。」と明治時代の渡海船の活躍を記している(⑫)。
 今日中島町6島と三津浜を結んでいる渡海船は13隻である(組合加入は12隻)。かつて中島地方では、津和地、二神、元怒和、上怒和、睦月、野忽那、中島本島の大浦、小浜、長師粟井、宇和間などの各地区にそれぞれ2隻の渡海船が活動していた。各地区に2隻ずつあったのは、2隻で交互に運航して渡海船の営業を1隻で独占しないという配慮からであった。渡海船の組織としては中島渡海船組合があり、運賃・手数料などを協定して、現在も活動を続けている(写真3-4-15参照)。

 イ 女性渡海船船長の姿

 中島地方で親子3代にわたって渡海船を営み、今日中島渡海船組合の副組合長をしている野忽那の**さんに若手の代表として聞き取り調査に御協力いただいたが、まず戦後の野忽那において、夫婦で渡海船を始めたお母さんの**さんから、戦前戦後にわたる歩みについてお話をうかがった。
 「私の父は**といい日露戦争にも従軍したそうです。母は**といい、97歳(明治27年=1894年生まれ)で健在です。父は淡路島からエンジン付きの船を購入し、母が機関長の免状をとり、夫婦で渡海船を始めました。父はなかなか派手好きな人で、松山でよく豪遊したそうです。
 私の主人は、明治45年生まれですが、3年前に病気のため76歳で亡くなりました。私たちは同じ野忽那の生まれですが、結婚して満州国大連で働きました。生来の弱視のため徴兵検査に不合格で軍隊には入りませんでした。終戦後、満州に3年おりましたが、子供4人を抱え大連で大変苦労している時、知り合いの中国人から受けた親切を忘れることはできません。
 昭和23年(1948年)に野忽那に引き揚げ、渡海船を始めました。主人が弱視でしたから、船員の免許が取れないため、私が中島で講習を受け、昭和30年に今治で受験して丙種船長の免状を取り、渡海船八幡丸を運航してきました。最近まで息子と一緒に乗っていました。
 子供は男8人、女5人の13人産みましたが、長男は大連でハシカのため亡くなりました。他の子供はみんな元気で、この子は7番目ですよ。父親はシケを怖がりましたが、この子はどんなシケでも平気で乗る元気者です。」

 ウ 渡海船を継承

 **さんは、野忽那中学から松山北高へ進学し、兄や姉と一緒に下宿しながら通学し、いわゆる学園紛争時代に生徒会長も経験した。5・6年ほど父母と一緒に渡海船で働いていたが、父の**さんが病気で船を降りたため、母**さんと渡海船を続けて営業のコツを身に付けた。
 「私はもともと島の生活が好きでしたから渡海船を受け継ぐことに抵抗はありませんでした。しかし、昼は渡海船で働いている島の生活に何か物足りなくなりまして、島の若者20人ほどで青年団に相当する『青友会』という組織を作って親交を深めました。その中で、松山から赴任して野忽那小学校の教員をしていた一人の女性と知り合いましたが、その女性が家内です。」というわけで、いわば「青友会」が取り持つ縁で若き渡海船主と小学校教師のカップルが昭和60年4月、めでたく誕生した。この時、**さんは**さんの姓を継ぎ、**姓から**姓になった。現在**さん(32歳)は、島の渡海船主の妻として、また小学校教師として、更に長男**君(6歳)、次男**君(3歳)の母親として子育てに熱中し、一人三役をこなしながら忙しい毎日を送っておられる。

 エ 渡海船の運航と営業について

 「私の営業は二通りになっていて、週のうち月・水・金曜の3日間は渡海船の仕事をし、他の日は農協より委託されたミカンや他の農産物、肥料等を運送します。従って、10月から4月までが忙しい時期になります。渡海船の仕事は以前よりだいぶん減ってきました。やはり島の人口が減ったからです。野忽那の人口も300人足らずになりました。野忽那はもともと行商人が多く、島に籍は置いているが居住していないので、実際の人口はもっと少ないと思います。
 渡海船の仕事は、朝7時30分ごろ、依頼された小荷物を積んで出航し、8時30分ころ三津浜港の専用岸壁につきます。三津浜港の専用岸壁はもともと港の入口に近かったのですが、奥の方に寄せられたうえ、接岸スペースも狭くなりました。注文・依頼の品物は祖父母、父母の昔から付き合いで決まっている三津の卸屋、中継店から仕入れます。仕入れの品はあらかじめ電話をしておりますので、船まで運んで来る場合もあるし、自分で直接仕入れる場合もあります。品物は日用品が多く、酒、ビールから漁具など様々です。依頼されたら病院まで薬も取りに行きます。仕入れと積み込みが終わって、11時30分ころ三津を出航し、13時ころ帰島して地区内に個別配達します。大体15時ころに終わります。品物によっては17時、18時ころまでかかるときもありますが、軽トラックが入らない狭い所は、大八車で運びますから、それだけ時間がかかるわけです。船から荷物を岸壁に上げるときは、その時の潮の具合に応じて、下段・中段・上段を使うため、大変肉体的にきついので、ベルトコンベアを個人用で設けました。最近農協が岸壁にクレーンを設置し、パレットが使用できるようになって楽になりました。
 船は八幡丸(18トン)と第二八幡丸(17トン)の2隻で交互に運航します(写真3-4-16・17参照)。父の時代に新造しましたが、その後、中古の船に買い替え、今の八幡丸で4隻目です。八幡丸の八幡は、野忽那の八幡神社(宇佐八幡宮の系統)から取ったものです。中古船を買い替える場合は、船の底を見て評価します。今の船は越智郡の島方から購入したものです。
 季節的に品物も変わり、どうしても夏分は清涼飲料水やビールなどが増え、冬分は灯油などが増えてきます。お盆のころは帰省客が増えてきますが、以前と比べましたら帰省客も減ってきました。また、昔は節句用品などが入用でしたが、今は余り節句行事もやりませんので少なくなり、年中行事や生活スタイルの変化を感じます。また、荷物に生鮮食料品が少ないのは、地元の小売店が自分の船で直接北条で仕入れるからです。そのような船が私方以外に2隻ありますが、渡海船組合には入っていません。」

 オ 地元の付き合いについて-地域の役職なんでも

 もともと世話好きな**さんは、先に紹介した「青友会」の世話役はじめ、消防団長、地区総代(区長)、公民館主事、スポーツ少年団役員、八幡神社氏子総代、等々を引き受け、地区の諸行事や催しを盛り上げる活動を続けてきた。現在は警察の青少年補導協助員を務めているが、**さんは「人が少ないために、結局何役もやらざるを得ない面もあるのですよ」とボランティア的な地域の世話役について控え目に語っておられた。

 力 渡海船の現状と今後の見通しについて

 「渡海船の営業については、やはりフェリーの影響が大きいです。かつては渡海船に積んだ資材を今は直接トラックごとフェリーに積んできますから。しかし、業者が小さい島にトラックごと来ても採算上引き合わないところもあります。中島地方の渡海船は農業や漁業との兼業で営業している船が多く、専業は私と粟井の2軒です。しかし、私も四国電力の委託員を15年余りやっており、電力の検針、集金、取次ぎなどで月1回各家々を廻っています。
 各渡海船主も漸次高齢化してきていますから、今後は後継者の確保が問題です。私の子供たちもおそらく渡海船を引き継がないでしょうから。私の代で渡海船をやれるまでやりたいと思います。私自身、野忽那が好きで帰って来たわけですから、頑張っていきたい。渡海船は地元の信用が大切ですので地域の信頼に応えていきたいと思います。」
 以上、祖父母の時代から三代続いた渡海船主の**さんには、お母さんの**さんと奥さんの**さんと一緒に語っていただいた。大正時代から昭和の戦前・戦中・戦後という歴史の激流を乗り切ってきた女性渡海船長の**さんと後継ぎの**さんの語り口は、島に生まれ、島を愛し、島とともに生き抜く明るさとさわやかさに満ちていた。

写真3-4-15 三津浜港の渡海船船荷役場

写真3-4-15 三津浜港の渡海船船荷役場

平成4年3月撮影

写真3-4-16 三津浜港で荷揚げ中の八幡丸

写真3-4-16 三津浜港で荷揚げ中の八幡丸

平成4年3月撮影

写真3-4-17 野忽那港停泊中の八幡丸と第二八幡丸

写真3-4-17 野忽那港停泊中の八幡丸と第二八幡丸

平成4年2月撮影