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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)渡海船の歩み-幕末から平成にかけて

 年末が近づくと、各新聞やテレビが年の瀬風景として、しばしば取り上げるものに、渡海船の忙しそうな風景がある。写真3-4-10も平成3年12月末の今治港内に停泊している渡海船で、船上には島々へ輸送する正月用品が山と積まれており、今治港内の歳末風物詩を描いている。
 「島の便利屋さん」として親しまれ、島々の日常生活に密接な関係にある渡海船が始まったのはいつごろからであろうか。芸予諸島と今治港を結ぶ渡海船の起源については、幕末の天保年間(1830年~44年)、伯方島の山岡岩吉が四丁櫓(漕ぎ手が4人)で島々と今治を結んで便を図った時からといわれ、山岡岩吉は渡海船の始祖ともいわれている。また、島々相互を結んだ渡海船としては、安政年間(1854年~1860年)、伯方島と大島の宮窪とを結んだ例をはじめ、明治以降は島々の日常的な交通運輸の便船として発達してきた(⑦)。 
 明治時代から大正時代の大三島の渡海船について、大三島町野々江(ののえ)の和田一馬氏は、「渡海船は明治の初めころから就航していたようであるが、記憶によると明治40年ごろのこと、当時野々江坂に今治行き渡海船20石積(約3t)2隻があった。櫓漕ぎ舟で、舟は13人の組持ちであった。舟宿(船頭長)は和田一馬氏の家で毎日のように集合していた。(中略)客は、島中から集まっていた。客の場合は前日に来て舟宿か親類などに泊まっていた。荷物は当時島で盛んに織られていた木綿糸や綿織物、家畜(牛)、農作物。搬入されたのは雑貨店の商品や建築資材であった。(中略)大正3年3月、坂に始めて定期舟が寄港。また大正の終わりごろには島内野々江に蛭子丸、大三島丸が今治への定期航路を開始したため。坂の渡海船はその影響を受け次第に縮小、13人の船頭も7人に減った。(⑨)」と往年の様子を語っている。当時、近距離間を運搬する渡海船は経済上と潮流の関係から櫓漕ぎ船が多かったようである。更に、和田一馬氏は明治時代に続いて、次のように語っている。
 「大正から昭和にかけて宗方(むなかた)の川尻の港は渡海船でにぎわった。そのころの渡海船は、チョキ造りの小舟で、船頭で島でできた雑穀、芋、野菜など今治へ運んで商人に売り、帰りは島の人々から頼まれた品物を今治で買い求めて、手数料をもらっていた。ハウス栽培のなかった当時、島の初物は今治地方より10日ほど早かったので結構商売になった。島の子供たちが拾ったツングリ(松かさ)も一荷2銭ぐらいに売れたので運賃を払っても子供の小遣い稼ぎになった。(⑨)」
 このように明治時代から大正時代にかけて発達した渡海船は、昭和初期には30余隻に及んだ。しかし、昭和12年(1937年)7月、日中戦争勃発によって漸次減少し、昭和20年(1945年)8月、太平洋戦争終戦時には、わずか5隻という有様であった。
 戦後における経済復興とともに、島々の海運活動は、積極的に海に生きるバイタリティの伝統をもとに再び発展してきた。渡海船も島々の経済活動の発展にともなって増加し、戦後の島々の日常生活を支える役割を果たしてきた。昭和25年(1950年)には今治機帆船協同組合が15隻の渡海船でもって結成され、渡海船主たちの組織的活動が展開されるようになった。その後、渡海船はますます増加して、昭和44年には最盛期を迎え、組合加盟の渡海船が47隻に達するに至った(図3-4-12参照)。
 しかし、昭和34年、昭和海運によって全国初のカーフェリーが今治・三原間に就航したのを契機に、昭和40年代から島々と今治・三原・尾道・因島などを結ぶ航路のほとんどがフェリー化され、島々もモータリゼーション時代の影響を直接受けるようになった。しかも、昭和50年代からは島々の陸上運輸の分野に大手業者が進出し始め、地元運送業者も宅配便の運送を始めるようになった。更に63年1月、伯方・大島大橋の開通にともない、今治・大島間のフェリーが大型化され、増便も相まって渡海船の営業条件は一層厳しい状況を迎えている。
 このような時代の進展と営業環境の変化にともない、零細経営の渡海船は、渡海船主の高齢化と後継者難などの理由で順次廃業する船主が増え、昭和48年には21隻、昭和60年には16隻と減少し、平成4年1月現在では9隻となった(図3-4-12、図3-4-13参照)。
 以上、渡海船の歴史的な歩みと役割を見てきたが、今日9隻に減少した渡海船は今後とも減少し、やがて廃絶していく運命にあるのであろうか。その答えはこれから述べる渡海船の活動内容、運航、営業の特色と島々に密着した地域的役割に見出すことができよう。

写真3-4-10 年末の今治港内の渡海船

写真3-4-10 年末の今治港内の渡海船

向こう側は伯方丸、手前は友浦丸。平成3年12月撮影

図3-4-12 戦後の今治寄港渡海船数の変遷-渡海船隻数

図3-4-12 戦後の今治寄港渡海船数の変遷-渡海船隻数

「愛媛県史地誌Ⅱ(東予西部)(⑧)」一部追加をもとに作成。

図3-4-13 平成3年末における今治入港渡海船航路

図3-4-13 平成3年末における今治入港渡海船航路

今治市港湾局資料より作図。