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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)親子孫三代で担う伯方の一杯船主

 **さん(大正3年=1914年生まれ、78歳) 越智郡伯方町木浦

 ア 帆船時代-生い立ちと少年時代

 「幕末に生まれた私の祖父は、夫婦で石船に乗っていました。主に徳山の沖の大津島・黒髪島あたりの石垣用の石を、下関方面に運んでいたようです。明治20年生まれの父も船乗りで、夫婦で乗組み、母は炊事等の家事や積込作業の手伝いをして、父は銅鉱石や石炭を積んで大阪と新居浜・若松の間を往復していました。私も昭和3年(1928年)に高等小学校を卒業すると、そのまま父の船に乗りました。
 当時はほとんどが帆船で、そのころの私のところの帆船は2本柱で、マストの高さは16尋(約24m)、3万貫積み(200t程度)で、鉱石船は帆が大きくマストが高く速かったですよ。当時伯方には『日の出造船』『伯方造船』等5つばかり造船所がありました。新居浜から大阪まで、風があれば1日、風なしで5日で行きました。逆風でも間切って(斜行しながら)進みました。昼夜兼行で、晴れてさえいれば夜間でも、御崎岩、二面島、高見岩等を目印に進むことができました(図3-4-11参照)。
 運送物は、新居浜の銅鉱石を大阪の工場に持っていって、肥料・硫酸の原料とし、その後四阪島に鉱石を運んで製錬を行った後、新居浜に帰る(三角)航路をとることが多かったです。若松・大阪間の石炭運搬も運送料が良かったのですが、大阪から若松への帰りは、大阪の問屋(オペレーター)の仲介で、拾い荷(雑多な荷物)をして、こちらの方の運送料は安くたたかれました。
 昭和初期までは海運も非常に景気が良く、荷揚げ等の作業は乗組員に任せ、遊廓等に行きっぱなしで出港まで帰って来ない船主船長も多くいたようですが、昭和4年(1929年)からの恐慌(世界恐慌)で海運も大不況になり、それまでは1日1円程度であった海員の給与も、半分近くに下がり、そんな余裕もなくなりました。
 昭和12年(1937年)の日中戦争前後から景気も回復してきましたが、戦争の拡大とともに、危険な思いもするようになりました。

 イ 機帆船への転換と第2次世界大戦前後のこと

 「昭和8年(1933年)前後に帆船から機帆船に切り替わっていきました。一度替わり始めると、その転換は早かったです。父は昭和9年(1934年)に機帆船に切り替え、三津の木藤造船で新造しましたが、私も昭和11年(1936年)に伯方で2か月の講習を受けて、機関長の免状を取りました。同年に徴兵検査で甲種合格となりましたが、くじのがれで召集されませんでした。昭和12年(1937年)に呉海軍工廠に入社し、16年(1941年)の1月に呉で結婚しました。16年に戦争(太平洋戦争)が始まると、海軍の特務艦(軍艦の助力に当たる艦船で工作艦・運送艦・油送艦・標的艦等がある)に乗り、派遣工員として勤務しました。動力機関等の整備・点検が業務で、特務艦手当をもらい、上海・香港にも長くおり、終戦直前は技術兵曹でした。
 戦争中に船も徴用されて沈んでしまい、復員後は船もなく、しばらく父と漁で生活する一方で、芋等を闇で尼崎に運んだりもし、2年間ほど別の海運会社に勤務したりもしました。それにより資金を蓄え、ようやく昭和27年の39歳の時に、200tほどの機帆船(旭丸)を購入し、私としては初めて船主になりました。伯方の村上秀造船で建造したもので、乗組員は長男と家内の弟など7人ほどでした。

 ウ 鋼船への転換と経営の変遷

 「購入した機帆船に10年間世話になった後、昭和37年にレーダーと船舶電話付きの積みトン500t(総トンは297t)の鋼船を新しく購入したんです。岡山県沼隈郡の常石造船で建造したもので、『3号旭丸』と命名しました。伊予銀行から融資を受けて年賦払いで、建造費を返済していきました。このころ、そのような鋼船建造ブームの中で、愛媛相互銀行が新しい投資先として低利の融資をしたので、他の伯方の船主では、今の愛媛銀行にお世話になっておる者が多いようです。乗組員は8人でした。
 昭和42年に、船舶整備公団からの公団船を持たしてもらうようになり、積みトン900t(総トンは497t)、900馬力、長さ50m、幅8mの船で、船名は『旭洋丸』です。船価は7~8,000万円ほどでした。公団船とは、公団が購入資金と所有権を持ち、船主は管理権だけを持つ船です。船主の書類審査があって、優良な者だけにしか与えられません。購入の際の巨額な資金がいらないのはいいのですが、後の使用費等の払込みがなかなか大変で、しばらくしてから残額を支払って、所有権を公団から買い取りました。その後新しい公団船がもらえるめどがたつと売却しましたが、韓国の業者の仲介で今はバングラデシュ船籍で使われておるようです。昭和55年に新しい公団船をもらい、『新旭洋丸』と名付けました。長さ50m、幅10m、1,200馬力で、総トンは290tですが、積みトンは942tで、前の船と比べると、スマートな割に積荷が多いわけです。船価は2億3,000万円で、現在この船に息子が乗っています。今の船の乗員は5人です。
 戦前の石炭、銅鉱石に代わり、戦後は主に鋼材を扱うようになりました。鋼材を無理して積むとアカがたまる(浸水する)ので、嫌がる船主も多かったですが、荷主が八幡製鉄なので支払が安定しているのと、運送費が高かったために、私はずっと世話になってきました。また長崎の石炭と八幡の鉄を結ぶ航路は、波の荒い玄界灘を行くので、船主は敬遠してましたが、往復とも積荷があり、運送費も非常に良かったです。広島県倉橋島等の他県の船主達は、徳山・小郡等の近辺の積荷も多いため、この航路には手を出しませんでしたが、伯方の船主たちが積極的にその航路を開拓し、初めて乗り込んでいった人たちは大もうけしました。私は遅れて進出したので、大もうけというほどにはなりませんでしたが。
 オペレーターは、戦後はおおむね商船三井近海の系列で、今まではエム・オー・シー・ウェイズ(内航不定期船を扱う)でしたが、今年(平成3年)からブルーハイウェイラインにしました。オペレーターから荷の注文が来ますが、荷主はずっと八幡製鉄(現在日本製鉄)で、鋼材関係を現在も中心に取り扱っています。

   [内航船の取引関係]

     船主・オーナー   ←   オペレーター    ←   荷主
     (船の運航)        (運用の手配・仲介)    (積荷依頼) 

 私は家族・親戚だけでやっている方が気が楽なので、あまり手を広げず船の隻数も増やしませんでした。伯方の船主の中にも、戦後の高度経済成長の中で、外航船に進出し、何隻・何十隻も船舶を持って大規模に事業を拡大した者もたくさんおりましたが、手を広げ過ぎた人は、オイルショック後の長期の海運不況や、最近の船員不足・外国船員雇用の問題で、現在ずいぶんと苦労しているようです。私の所は親戚関係だけで、荷主も大企業ですから、海運不況の時期も、にっちもさっちも行かないほど苦しい思いをしたことはありませんでした。この数年の好景気で、用船料(チャーター料)も倍近くになり、この景気が長続きしてくれればと思っています。海運業というのは景気の動向が真っ先に出てくるものです。」

 エ 一杯船主としての生活と家族

 「息子(長男・次男)は現在ほとんど家に居ることはありません。昔と違い、のんびりとした運航状況が許されなくなり、休む間無しで運航しなければ採算に合わなくなってきました。勤務は6時間交代で、昼夜兼行で走ります。これは帆船時代と変わりません。今年も息子たちは、年末・正月に家に帰れるかどうかもわからない状態です。私の所はまだいいですが、どの会社も船員不足で大変なようです。
 祖父も父も夫婦で乗ってましたが、私は妻を乗り組まさせんでした。しかし今でも夫婦で乗り組んでいる船主は多いです。伯方の(一杯)船主は、だいたい家族と親戚で乗組員を構成しています。その方がお互いに気を使いませんし、特に最近他人を雇うと給料が非常に高くつき、アシが出てしまうからでもあります。私は昭和60年に船から降りましたが、現在は長男・次男と甥の兄弟が乗組んでいます。長男は昭和19年生まれで、高校卒業後船に乗り、現在は船主船長として働いています。孫は高校卒業後波方海員学校に入り、来年卒業です。孫が後を継げば、祖父から数えると、五代船員をやっていくことになります。私の家では、これからも海と結び付いた生活が変わることはないと思います。」
 前項で述べたように、内航海運において「愛媛船主」は非常に大きな役割を果たしており、その中でも伯方町の船主は中心的位置を占めるが、その中で三代にわたる**さんのお話から、帆船時代から現在まで着実に生き抜いてきた、伯方の海運業者としての実績による自信をうかがうことができた。

図3-4-11 昭和初期の新居浜・大阪間の主要帆船航路

図3-4-11 昭和初期の新居浜・大阪間の主要帆船航路

**氏聞きとりに基づき作成。現在の備讃瀬戸南航路・東航路と一致。