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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)戦後の経済復興と海運業の発展-機帆船から小型鋼船時代へ

 戦後における島々の海運は、敗戦という物心両面における大打撃を乗り越えて、海に生き抜いた歴史的伝統を継承し、あたかもフェニックスのようによみがえって活動しはじめた。
 戦後の機帆船は、経済復興の上で海上輸送の主力的役割を果たし、経済復興の原動力となった黒ダイヤ(石炭)の輸送等に活躍した。特に、若松を中心基地として九州炭の海上輸送を一手に引き受けて活動し、北九州の洞海湾は千隻に及ぶ機帆船で埋め尽くされるほどの活況を呈した。昭和28年度(1953年)の海上輸送において、汽船と機帆船の対比は100対158であり、機帆船の役割の大きさを物語っている。機帆船が戦前から戦後にかけて内航輸送の主役となった理由の一つとして「500総トン以上の汽船ができる港は、戦前86港しかなかったのが、機帆船が入れる港は約850港もあり、小口近距離に向いていたことからも有利であった。」ことがあげられる(④)。
 このように、内海航路の主役として活躍した機帆船であるが、昭和20年代に全盛時代を迎えた後、昭和30年代には小型鋼船に主役の座を譲り渡すこととなった。全国的に機帆船から小型鋼船に移行する内航海運のブームは昭和30年代であったが、その中でも愛媛県、徳島県、広島県、山口県などの切り替えが早かったといわれる。特に愛媛県の切り替えは早く、「愛媛船主」の名を全国に鳴り響かせることとなった。その切り替えを先取りし、先陣切ったのは越智郡波方町と伯方町の船主たちであり、「愛媛方式」と呼ばれた独特の方法であった。愛媛方式の特色は、造船所と金融機関とが小型鋼船建造を全面的に支援したことにあった。まず、今治市の波止浜の来島船渠(後の来島どっく)が「来島型標準船」の量産と「月賦販売方式」によって鋼船建造普及の口火を切った。この方式に対し波止浜はじめ各地の造船所は、船主に金融機関を斡旋したり、造船所側の負担で年賦償還の延払いを認め、用船料から差し引くという方式でもって鋼船建造を奨励した。つまり、自己資金が三分の一、銀行や商工中金など金融機関の融資が三分の一、造船所への延払いが三分の一という方式で推進し、「愛媛では船主が船を造るのではなく、造船所と銀行が造った。」とまでいわれた(⑤)。
 このような鋼船建造のトップは波方町、続いて伯方町であった。伯方町では昭和31年(1956年)に伯洋汽船が358総tの小型鋼船「伯洋丸」を建造し、小型鋼船時代の幕を開いた。以後、昭和30年代~40年代にかけて機帆船から小型鋼船切り替えの爆発時代を迎え、昭和28年には県下で14隻しかなかった汽船が高度経済成長の波に乗って、昭和42年には約185倍の2,595隻に達するに至った。なお、中島地方では取り組みが若干遅れ、鋼船建造が本格化したのは昭和37・38 年ころからであった。
 このようにして、愛媛海運、愛媛船主の勇名は全国にとどろくこととなり、更に昭和30年代の後半からはインドネシアなどの東南アジア海域へ近海船、昭和40年代には遠洋船へと外航部門に進出を果たし、海外における海運活動が活発に展開されるようになった。