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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)行商船に乗って(=戦前の行商聞き取り)

 **さん(明治40年生まれ、85歳)
 **さん(明治43年生まれ、82歳)
 **さん(大正2年生まれ、79歳)
 **さん(大正5年生まれ、76歳)
 前項で記したように、戦前までは帆船(後には動力船)に乗って、睦月の人々は瀬戸内海全域より、遠く九州の五島列島や鹿児島、また朝鮮半島沿岸や山陰地方まで、反物を売り歩いた。明治20・30年頃の行商の勃興期については、みな物故されはっきりしたことがわからないが、今回の調査で大正から昭和初期にかけての、行商の全盛期について、貴重なお話を伺うことができ、以下に戦前の船による行商の様子をまとめてみた。なお、当時の行商体験については共通する部分が多いので、4名のお話を総合して項目ごとに一緒にまとめてみた。

 ア 船番時代の行商船での生活

 「私は満12歳で尋常小学校を卒業したら、すぐ船に乗りました。当時の睦月の女は、まあ高等小学校を卒業したら、大体行商に出たもんです。行商にも出ずろくにお金ももうけんような娘は、ろくな嫁になれんと当時は言われたもんです。普通は高等小学校を卒業してから、船に乗って2・3年、私の場合は尋常(小学校)卒の12歳からでしたから4年間は、船番をしておりました。」
 「当時(昭和初期)は睦月で30隻ほどは行商船があったと思います。6尋船で、風のない時には私等も櫓を漕ぎ、夜は船の中でざこ寝です。港についても夕方には必ず船に戻って寝よりました。船番は当時(昭和初期)で月に5円ほどの給金をもらいよりました。売り子に小さい子のおる時は、子守さんを雇いましたが、子守の給金も5円でした。子守は興居島(ごごしま)から雇うことが多かったです。」
 「船番の仕事は、御飯たきと掃除です。朝6時には起きて炊事をし皆に食べさせ弁当も作ります。洗濯は銘々がやることが多かったです。それから船板を上げて船室や甲板のぞうきんがけです。一生懸命拭(ふ)いたんで、まだ私の手には当時のこぶが残っとります。毎日少しだけお金をもらって、町にも買い物にでかけます。みそや薪(まき)は睦月で全部船に積んでいきました。米とお菜(さい)(おかず)を少しばかり買うほどです。」
 「行商船は『りゅう船』(=留船?)言うて、必ず2・3隻連れで行きましたんで、掃除が終わったら一緒の船番と皆が帰るまでしゃべり明かして、それがまた楽しかったもんです。『りゅう船』に(同年代の)友達がおらんのでいやじゃと駄々をこねたこともあります。おかず代が少し余ったのを船番どうしで持ちよって、時には芋を買って食べたりしたのも楽しい思い出です。」
 「食事を準備して待っていると、夕方になってぼつぼつと皆が帰ってきます。食事は皆がそろってから食べ、その後は今日の売上げの計帳や明日の準備をします。その時には、あそこではよく売れた、悪かった等の話でにぎやかでした。
 下関を過ぎて日本海に出ると海の色も真青で、少し風が吹けば波も大きく前の船の上半分くらいしか見えぬことも度々ありました。呼子(佐賀県)の片島に着くと鯨が取れたとかで、大勢が鯨を切り分けている様子が珍しく、今でもはっきりと覚えています。」

 イ 行商の商売

  ① 初めての行商

 「初めて商売に出たんが数えの16歳でしたか(昭和3年ころ=1928年)。2日ほどは同じ船の叔母に連れて行ってもろうたんですが、後は商売を覚えんといかんということで、一人で回りました。初めは商売するんが恥ずかしうて、『こんにちは』と挨拶して留守だと嬉しかったもんです。『休まして下さい』言うて入って、世間話をして順々に商売の話をするもんじゃと教えられましたが、なかなかそんなことはようしなかったです。親方に85銭に売れと言われとる品物を、お客がどうしても80銭じゃないと買わんと言い、夕方になってきた時は、情けのうて戸口にもたれて泣いたこともありました。」「今で言うたら30kgもあるような風呂敷包みを背負うて、品物もあまり売れず雨の中を裾をぬらして帰る時などは、何でこんな思いをせないかんのかと、本当に情けのうて悲しうてたまらん時がありました。それは商売に慣れてからも思うことが何度もありました。初めて3反売った時は、心底嬉しうて船に飛んで帰りました。そうしたら、親方に『そんな時は運がええ(良い)日なんじゃから、どんどん回った方がええ。』と言われて、そんなものかと思い、もう夕方になっとりましたが、また売りに出たのを覚えとります。売り子に出始めた最初の半期(4か月)のお金が37円で、兄さんにそのまま預けました。嫁に行く前ころ(昭和7年ころ=1932年)は半期で70円ほどもうけがありましたか。」

  ② 反物の価格

 「売値は親方が決めて、それ以上の売上げ金は売り子のものでした。符丁(暗号)を決めて反物の間にはさんでおきます。符丁で680と書いてあるのを1円80銭としておったら、ある時お客が符丁を見て勘違いし、他に大島紬(おおしまつむぎ)も買うからこの反物を10円に負けろと言い出して、ためしに『そんな安いねだんじゃったら足が出る』と言うてみましたら、その場で両方売れました。大きなもうけでしたんで、嬉しかったもんです。」
 「当時は10円もうけましたら(10円札が猪(いのしし)の絵柄なので)『猪を迎えた』言うて、簡単なお祝いまでしたもんです。当時の品物は木綿の絣が主で、1反の仕入れ値が7~80銭くらいだったでしょうか。それを1円30銭ほどで売りました。他には『ガス』言うて柔らかい(綿の)織物や、錦沙や銘仙等が高級品で2円から5円ほどで売りました。戦前はあまり高い物は売りませんでした。米1俵が8円の時代ですから。」

  ③ 行商先

 「(私等の船は)山口・広島・岡山や大分・和歌山あたりによく行きましたが、後にはさらに足を伸ばして長崎の五島列島や大村湾岸、山陰の島根・鳥取の方にもよく出かけて行くようになりました。宮崎・鹿児島の方に向かう船もありました。長崎や福岡・山口の炭坑・鉱山住宅や延岡の(今の)ベンベルグの社宅等はいっぺんに300人ほども商売ができるし、また私等が来るのを待ってくれてました。人が集まるときは不思議なもので、一人が買ったら我勝ちに買ってくれるようになるもんです。農家は大分では麦落しの時や、たばこ・生糸の納期が終わった、金のある時期に行きます。農家の場合も、隣が何々を買ったから私もということで、まとめた商売がしやすかったです。」
 「『秋売り』の帰りの時は冬で、玄界灘(げんかいなだ)は時化(しけ)て、福岡の神湊(こうのみなと)あたりで、よく1~2週間も風待ちをしました。もちろんその間も商売は忘れませんでしたが。正月前に帰る時は、必ずと言っていいほど山口の小郡(おごうり)に寄りました(図3-3-18参照)。正月前には睦月の行商船が小郡に7~10隻ほどはおって、睦月出身の商家や職人さんも多く、故郷に帰り着いたような気持ちでした。」

 ウ 結婚と家族

  ① 結婚

 「結婚は数えの18歳(昭和7年ころ)の時でした。当時は当たり前の事ですが、親どうしが決めた見合いでした。睦月を含め中島では(正式の結婚の前に)『仮祝言』を先にやります。仲人が酒1升と魚2匹を持って私の家を訪れ、その日に仲人と一緒に相手方の家に行きました。それから嫁は2泊3日、相手の家に泊まります。この時に肌を触れんかったら嫌うとるということで、女が婚約を拒むただ一つの方法でした。嫁が帰るときに婿さんが餅を持ってきて、嫁の家から餅のお返しをすると婚約の成立になります。それからしばらくは、男が女の家を訪れていくわけですが、『仮祝言』から『本祝言』まで、短くて数か月、長ければ数年の間があります。『本祝言』の日は『カゴ荷(に)ない』といって10歳くらいの男の子がさきがけにつき、婿の一族が花嫁を迎えにきて、カゴの中には婿方からの贈り物が入っとります。それから花嫁として実家を出て、婿の家に向かうのですが、その時に若い衆が回りから『いなすな』『いなすな』(帰らせるな)言うて砂をかけるのが風習でした。こうもり傘を持って髪に砂がかからんようにするため必死でした。あんまりひどいので、私か『砂かけな』(かけるな)とおらんだ(怒鳴った)ことが、後々まで話の種にされました。披露宴は3日ほども続きました。」

  ② 行商と家族

 「昭和7~8年ころに、それまでの帆船から動力船に切り換える船が多くなりました。船の大きさもそれまでの6尋船から、『8反船』言うて8尋(約14m)ほどの船が多くなってきました。商売上での睦月の者同士のいさかいはありませんでした。互いに辛い商売をしとるんやからということで、助け合う気持ちが強かったです。一緒に同じ集落に入った時は区域を分けて売り、門口で他の人がすでに玄関に荷物を降ろしよるのを見たら、その家には入りませんでした。」
 「当時の睦月では、家族の誰かが行商に出る家が多かったですが、残った者は農業をやり子供の面倒を見て、家族親戚同士が心を合わせて過ごしていました。またそうでなければ、やっていけなかったです。睦月は特に女が多く行商に出て、夫が農業をやっている家も多く、そんな場合は七夕さんのように4か月毎しか夫婦が会えませんでした。会う度に子供もびっくりするくらい大きくなっておりました。学校の先生が、親が家に居ないのに睦月には悪い子がおらん言うて、よくほめてもらいよりましたが、やはりそんな心のつながりがあったからでしょう。」
 「結婚して最初の子が生まれてから、また行商に出るようになりました。乳飲み子の間は子守(こもり)さんを雇うて一緒に連れて歩きます。時に船から落ちる子もありました。ある程度大きうなると両親や親戚に預けて、次の季節の子供の支度をして、行商に出ます。『出船(でふね)』の別れの時に一生懸命手を振る子を見たら、ひょっとしたら一生の別れになるかもしれんと思うて、いつも涙があふれて困りました。小さい子を連れて行けなかって、乳が張って乳を絞る時も子供の事を思うて泣きました。4人目の子供を行商に出とる時に亡くしましたが、3歳でした。ようやくはっきりと物を言うようになり、今度はいつ帰って来るんかと話しかけてきたのが最後の思い出になりました。行商先に『キトク、スグカエレ』と電報が来て、とるものもとりあえず帰ったら、もう骨になっとりました。『出船』の時のつらさだけは、やはり母親でないとわからんもんかもしれません。」

 エ 睦月の1年、睦月の民俗

 「睦月は、結婚式や法事、その他祝い事のほとんどは、旧盆・正月の前後で、特に『春売り』に行く前にやることが多かったです。小学校の運動会も春でした。ふだん滅多に帰ってきませんから、何ぞの時の睦月の集まりは派手だったように思います。『株(かぶ)祭り』ゆうて、一族の集まりも年に1回あります。
 正月前には睦月に帰る前に、山口の小郡で米を買い、睦月に帰ってから三津浜に船で出て、こまごまとした物を買い揃え、正月を迎える様にしてました。大つごもり(旧暦の大晦日(おおみそか))には、三津(吉田)の金比羅さまにお参りに行き、旧暦正月7~9日の椿祭りには皆が参拝しよったです。やはり航海の神様、商売の神様だからでしょう。船に乗って宮島や鞆(とも)の浦にも時々出よりました。」
 「正月2日には『投(な)げ初(ぞ)め』と言うて、どの行商船も浄めと祝の行事をやりました。船に御神酒をかけて船霊(ふなだま)さまを拝み、船上にはのぼりや旗を立てます。波打ち際に行商船が並び、やがて親方が岸に集まった人に一銭硬貨を投げ、商売繁盛を祈るわけです。船に上がってきたこどもには二銭やりました。この後のおはやしも決まっていて次のような文句でした。」
   イカリ取り『ヨーイ、とも(船尾)の衆、ともの衆』、ともの衆『ヨーイ』
   イカリ取り『今日は天気もよし、日柄(ひがら)もよし』、ともの衆『ヨーイ』
   イカリ取り『宝島に宝を積みに回ろじゃないか』、ともの衆『ヨーイ』
   イカリ取り『やんざえ、やんざえ、取り舵(かじ)』、ともの衆『ヨーイ』
   イカリ取り『やんざえ、やんざえ、も(おも)舵』、ともの衆『ヨーイ』
   イカリ取り『今の舵はヨーソロ』、ともの衆『ヨーイ』
 「いよいよ『出船』(行商への出港)の時は、日柄の良い日を選んで、マストに船名の入ったのぼりを6~7本もあげて出ていきます。家族はもちろん親戚や近隣の人が総出で見送ってくれます。見送りに来てくれた人には『出おみき』言うて、船内でお酒を差しあげてから出ます。子供の時は、出船の後はたまらなく寂しいものでした。『入(い)り船(ふね)』(睦月への帰港)の時は、睦月の子供等は皆『自分の家の船じゃろうか』というので走りよってきます。船はのぼりを立てて賑やかに入ってきますが、この時ほど嬉しいことはありません。それから親方の家でお祝いをします。」
 「しかしこのような風景も、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる少し前ころから、配給などの制限が厳しくなって衰え、船もほとんどが売却、処分されてしまい、投げ初めの行事もなくなってしまいました。行商が再びできるようになったのは戦後しばらくしてからで、それまでは皆、芋や麦を食うて、島で食うや食わずの生活になりました。」