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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)高度経済成長期から現在まで

 ア 菓子商として

 **さん(昭和5年生まれ、62歳、菓子商)聞き取り
 菓子・みやげの面から見た宮浦新地・大三島の変化と島民の食生活や流通の変遷をたどることができ、以下にまとめてみた。
  
  ① まんじゅうからパン製造へ、昭和20年代まで

 「父はもともと隣の大島出身で、菓子商を営んできました。今治で商売をしとったんですが、それがうまくいかんようになって、大三島の井口(現上浦町)に移り住んだんです。今の店の屋号の『井盛堂』というのも、当時井口は盛口村でしたので、その二つの名前をとってつけたんです。しかし井口ではあまり菓子は売れんじゃろう、何と言っても宮浦がこの近辺の中心じゃし客も多いからと親切に世話をしてくれる人がおって、こちらに移りました。私か生まれたすぐぐらいの、昭和5・6年ころです。戦前は御島(みしま)まんじゅうの名で、練炭七輪で火を起こして5つ位の型入れに生地を入れて、まんじゅうを作っておりました。当時宮浦では菓子というと酒まんじゅうが中心で、新地で10軒ほどある他の店は、ほとんどそれでした。酒種を入れてちょっと甘酸っぱいすえたような匂いのあるものでした。今でも1・2軒売っとります。
 ところが戦時中の統制で砂糖が全くと言っていいほど手に入らなくなり、開店休業のような状態になりました。そこで機械を仕入れて、戦中と戦後しばらくの時期は、アイスキャンデーを作って売っておったんです。私も自転車で売り歩きました。私は高等小学校を卒業してから、勤労動員で広島の工場で働きましたが、終戦でこちらに戻ってきました。世の中が少し落ち着いて砂糖も手に入りだして、父はまんじゅう作りを再開しましたが、これからはパンの時代になる言うて、専門の職人を雇うてパンを作りだしたんです。昭和24年ころやったと思います。
 私もパン作りを最初から手伝っておりました。当時、大三島高校ができるというので、私も高校の先生に勧められて試験無しで入ったんです。18歳でしたから、ずいぶん歳をくった高校生でした。設立当初は定時制でしたんで、昼間はずっとパンを作っておりました。4年生になる時に全日制に変わり、これは高校を辞めんといかんと思いよったんですが、担任の先生に骨折ってもらって、なんとか卒業はしましたわい。卒業してから、西条の『黒猫』というパン屋さんに弟子入りして、半年ほど修業しました。実は女房ともその時知り合って結婚したわけです。帰ってきてから本格的にパン製造を始めたんです。父と職人が作ったパンを、売り歩いたり配達するのが主な仕事でした。昭和28年ころでしたか。」

  ② 給食と食パンの製造へ、高度経済成長期のころ

 「最初は自転車で売っておったのですがこれだと肥海と井口集落に行くのが精々で、そのうち単車を買い、昭和30年すぎにオート三輪を手に入れました。もちろん中古でしたが。実は無免許で何度かつかまって罰金をとられて、免許を取ってもらわな困ると警察に言われ、免許を取ったんです。当時車を持っとったんは内海建設と豆腐屋さんとうちと、宮浦で確か3軒だけでしたな。当時は車が珍しゅうて、子供等はいつも私の車を見て追っかけてきては、よく後に飛び乗っておるんです。それで危ないからと警察に怒られもしましたが、いつ乗ったかわからんのですからしょうがないですわい。車になると本当に島中を配達するようになりました。宗方(むなかた)・甘崎(あまざき)・瀬戸の集落(図3-3-10参照)まで回って、1日70kmは走りましたか。また車もよく故障するし、当時は舗装もしてなくて揺れすぎて気持ち悪くなったもんです。
 島でパンを最初に始めたのはうちだったんですが、やがて宮浦でも3軒、他の集落も合わせると6軒近くパンを作るようになりました。競争が激しうなって、もう商売を辞めて大阪にでも出ようかと父が言った時もありましたが、他の店も苦しいんやからここを乗り切らなあかんと頑張ったんです。パンを売るいうても直接売るんではなくて店に卸すわけですが、これが他のパン屋と競争で大変でした。最初のころは1個も売れずに泣きたくなる時もありましたが、『しょうがないのお。そしたらわしが行こうか』と親父が行くと売れたもんです。集落の総代や組長などをやり、世話好きじゃった父の人徳じゃったんでしょうか。そのうち心安い店ができて他のパン屋が先に来ても、うちの分を空けておいてくれるようにもなりました。
 競争が激しくなってきたころ、鏡小学校(肥海・大見集落)で学校給食を始めたんです。なんで鏡小が最初やったかといと、当時県下の平均よりかなり身長が低かったのがきっかけらしいんですが、3年ほどして身長がぐっと伸びたんで、それを見て島内の他の小学校も給食を始めました。給食だと定期的な収入が確保できるんで、他の2軒と共同でそれぞれ300人ずつくらいを分担し、給食のパンを作るようになりました。昭和35年ころやったと思います。当時パンをこねるのは、手動から5馬力のモーターによるミキサーに変わったばかりでしたが、パンを最初に蒸すのは七輪なんで大変でした。朝起きるのは2時半で、どんなに遅くても3時半には起きんと問に合わんかったです。たくさんの七輪の火をおこして水を沸かし、練った小麦粉を蒸してから釜に入れるまでが大変です。めったに朝飯を食ったことはないですな。それから釜でパンを焼いて、できあがるのが9時半です。給食が始まってしばらくして、私が上浦町の分(900人)全部を担当するようになると、他の小学校を回って最後の南端の瀬戸集落に着くのは11時半ころで、保育園の子らは座って待っとりました。そんな生活をそれから20年続けたんです。」

  ③ パンから再び菓子製造へ、石油ショック以後と現在

 「父は70歳近くなって、現在の私の店舗がある家を隠居所にして、両親で移り住みました。父はそこで細々とまんじゅうを作っておったんですが、当時2人で3,000円で暮らせる所を6,000円近くもうかるので、わしのことは心配せずに自分の商売をやれと言ってくれました。そこで借金もして倉庫を買取り、パン製造の機械を据えて大規模にやりはじめようとした矢先に、石油ショックが起こったんです(昭和48年=1973年)。途端にパンも売れんようになって、一人おった職人も辞めてもらったんです。私と父二人でパンを作ったんですが、翌49年の末に父が交通事故で亡くなってしまいました。それからは私等夫婦で働いたんですが、妻は心臓が悪く苦しげで、このころが一番苦しい時期でしたなあ。
 しかも大三島全体で過疎化が進み、最初900人であった給食もどんどん児童数が減り、採算が取れんようになってきたんです。その上フェリーが就航して(昭和40年)しばらくしてから、トラック輸送で大手のパン製造会社の製品がスーパー等にどんどん入るようになり、そちらの方がパンの種類も量も多いもんですから、わしらの作ったパンは店にもなかなか売れんようになってきたんです。このころは本当に先のわからん辛い時代でした。
 昭和54年でしたか。当時高校生じゃった次男が『お父さん、わしが後を継ごうわい。しかしパンにはもう見込みがないから、菓子作りの専門学校へ行かしてくれ。』と言うてくれたんです。その言葉を聞いて心底嬉しかったです。息子は学校に2年行き、それから5年ほど他の店で修業してから戻ってきたんですが、戻ってくるちょっと前の昭和60年に、商工会の資金で800万円借りて、半自動式の菓子製造の機械を買(こ)うたんです。当時町の人は『どうならい、あんな借金をして。先行き菓子が売れんようになったらどうするんじゃろう。』と心配してくれましたが、ちょうど運のいいことに大三島大橋が開通するころ(昭和54年)から一般の観光客がかなり増え始めたんです。じゃから、まんじゅうを売っても十分商売が成り立っていくようになりました。
 戦前は、一般の観光客はあまりおりませんでした。そりゃ神社の四月大祭の時は、参道に人があふれんばかりで、店を閉めても『まんじゅうはないんか』と戸をたたく人までおったです。新地の店は1年の売上げを4月で稼ぐとまで言われてました。しかしふだんは海軍か鉱山関係の参拝者か、大三島講で来る人が船に1隻か2隻くらいで、それだけではあまり商売になりませんでした。今でもどっちかというと、うちの店は一見の客より、大三島出身の人や島内の人が他所に行く時のみやげにするなじみの客が多いです。
 まんじゅうの原料の仕入れは、むかしからのなじみの今治のあんこ屋さんです。あんこはナマなので、トーカイ(渡海船)は毎日宮浦港を9時に出て今治に行き、昼2時に帰って来るので運送を頼み、持ってきてから砂糖を入れてあんこを練るんです。しかし私の父のころは尾道トーカイ言うて、尾道との結びつきの方が強かったように思います。今息子がやっている和菓子の方の仕入れは、松山の専門業者に頼んどります。
 菓子にもう一度切り換える時には、本当に一か八かの大博打でしたが、息子が今はしっかりと家業を継いでくれて順調にいっとります。わしももう60(歳)を過ぎて定年じゃから休ましてくれ言うんじゃが、息子には、おじいさんも父さんを手伝うて70過ぎまで働いたんやから、それまでは手伝うてくれないかんと言われます。今でもあんこだけは私が作ります。和菓子は私は何も知らんから、まがらん(さわらない)のです。今は孫のお守が毎日の楽しみです。」

 イ 旅館・回漕業者として

 **さん(昭和11年生まれ、56歳、回漕業)
 **さん(昭和16年生まれ、51歳、旅館経営)御夫婦聞き取り
 お二人の話から宿泊者と港から見た宮浦の変遷と交通網の変化をうかがうことができ、以下にまとめてみた。

  ① 昔の旅館の様子

 「私の祖父が、明治40年ころに今の旅館・回漕業を始めました。祖父はもともとは広島県因島(いんのしま)の出身で、私も生まれたのは兵庫で、戦時中は因島におりました。祖父母がおる関係で大三島に来たのが、昭和27年です。もっとも子供の頃には何回も大三島には来てました。
 昭和40年頃までは、この旅館の前まで入り江が入り込んでまして、以前は伝馬船によるはしけで沖に停泊している本船と旅館との間を結んでいたそうです。かなり昔に、その伝馬船どうしの客の取り合いで客を積み過ぎ、船が引っくり返って、死者が出たという話を聞いたこともあります。前の港の棧橋は私の祖父も含めた商工会が中心になって、尾道から持ってきたそうですが(昭和3年=1928年設置)、これにより定期船が接岸できるようになったらしいです。もっとも大型船については、私等の頃もはしけを使っていた覚えがあります。
 特に昭和30年ころまでは、島内の道路が整備されていないこともあり、島内も含めて物資の輸送はほとんど全部船で、定期船は各浦々の集落を全部回って運航しておりました。中国方面、特に尾道や竹原等への連絡は、松山発着の便を含め、この大三島を通るルートが中心で、宮浦に停泊・通行する船舶数は、現在と比べかなり多かったと思います。
 戦前戦中ころは、水は近辺の井戸水を使ってました。風呂桶(おけ)は五衛門(ごえもん)風呂でいつも水をためていたように思います。戦争前後は、宿泊客の米は自弁でしたが、みそは自給で、野菜や魚は農家や漁家とのつながりでなんとか手に入れていたようです。飲料水は、昭和27年頃には70尺(約21m)ほど打ち抜いて出た水を使うようになりました。町の上水道ができるまでは、それを使っておりました。」

  ② この数十年の変化

 「私が父と一緒に仕事を始めたのは、昭和32年ころです。私の所の宿泊客は、商人や出張員が昔から中心でした。特に尾道からの仲卸し(仲買・卸売)の商人や出張員が多かったです。スーパーがない当時は、各集落に小店がありましたので、月に2回ほど注文を取りに各商人が来てました。雑貨・菓子・呉服関係が中心でしたが、今は流通経路が変わってスーパー(農協)等は直接仕入になり、また各集落の小店も多くがつぶれてしまい、ほとんど来なくなりました。以前は船の便数が少ないこともあって、仕事上の客はほとんどが泊まりでしたが、架橋が進んだ今は、夕方過ぎても帰れるようになったことも影響しています。
 切符販売の仕事をずっとやってきて、港の船客の流れを見てきましたが、昔は純然たる観光客というのは多くなかったです。シーパレスが就航(昭和47年より、STSラインの名称で広島から宮島-宮島-瀬戸田-鞆(とも)等の島しょ部の観光地を結ぶ、観光専用の高速船で、瀬戸内海汽船が運営。外国人観光客を中心に年間一万数千人が訪れる。)するころから、客層が変わってきたように思います。大三島大橋ができる(昭和54年)前後から、観光客が増加してきたように思いますが、大橋や上浦町側からのフェリーでバス等で神社前に降りて、そのまま帰ってしまいますから、参道商店街がさびれてきましたですね。大三島橋、その後の伯方大島大橋ができて、船の便数を大幅に少なくしてしまいましたが(図3-3-11参照)、便数が半分に減ると、(不便なため)乗降客はそれ以上に減ってしまいます。港からの乗降客は本当に減ってきました。
 私の主な仕事は、船荷の積降ろしと配達です。昭和30年代はみかん景気の時期でみかんの積荷が非常に多かったです。当時第1便が6時発でしたんで、朝5時には起きて港に行ってました。冬の寒い朝に、潮が引いて棧橋の端(はし)の方に停泊している船まで、大量のみかんを運ばねばならない時は、泣きたいくらい辛いもんでした。夕方は5時半ころまで積降ろしをやって、配達や送り状を書くなどの処理や翌日の準備をしていると、晩の9~10時になることも珍しくなかったです。しかしフェリーの発達と大橋架橋で、完全に大手のトラック輸送に握られてしまうようになり、船荷そのものも最近はかなり少なくなってきたです。船は港々で荷が止まってしまいますから、集荷配送まで一貫しているトラックにはかないません。
 今後子供が帰ってくるようになれば、内部も改装して観光客向けの旅館業を中心にやっていきたいと思っています。」

  ③ 主婦として旅館を守る

 「私は宮浦の隣の台集落の出身です。高校を卒業して島内の銀行に勤め、集金等でこの旅館を担当している際に、夫の祖母・母に気に入られて結婚することになりました。昭和37年でした。
 農家出身であった私が全然違う世界に入ったものですから、最初は苦労の連続でした。当時は使用人も多く、また祖母・母と3世代同居で、まあそれで旅館の「味」のようなものを仕込まれたわけですが、気は使いました。結婚当初のころ、朝6時前に起きたらもうみんな働いておって、本当にばつが悪い思いをしました。年に何回か熱が出て倒れ、結婚1年で10kgはやせました。お客さんの朝食と弁当の準備をするため、朝5時には起き、それからしばらくは戦争です。部屋の掃除等の後、午後2時から夕食の準備にかかっていました。結婚当時は中国電力の工事関係者が多く、土曜日までは宿泊客で一杯でしたし、隣に映画館(芝居小屋)があって、映画を見に行った人が帰ってくるのが晩の10時ごろです。映画から帰ってくる人のために風呂のたきつけを燃やし燃やししていると、けむたいのと辛いのとでぽろぽろ涙が出て止まりませんでした。それから片付け等をしていると、床に着くのは毎日12時を過ぎてました。
 祖父母がこの旅館を創業したということもあり、昭和40年に90歳で亡くなるまで、祖父母がずっと経営権を握ってきました。卵などを買いに行くのでお金を祖母からもらわなければならない時、母に『あんたはお祖母ちゃんに気にいってもらってるから行っておいで』と言われて、私が祖母のところに行くことが多かったです。その後昭和50年から、私が家計を持つようになりました。辛い時もありましたが、旅館を預かるおかみとして、よい修業をさしてもらったと思っています。今は息子が後継者として戻ってきてくれるのが望みです。」

 ウ 書店経営者として

 **さん(昭和10年生まれ、57歳、書店経営)
 書店と島の経済状況との関わりと、参道商店街から埋立地みくし通りへのいちはやい進出の経過について、以下にまとめてみた。
   
  ① 若い頃

 「私の祖父が、この新地で商売を始めるようになったのですが、祖父は参道の商店街の中心部に、書店・薬局及び島で最初の新聞配達店を経営し、司法書士もやっておりました。私の父は次男でしたが分家して労働者として働き、三男の叔父が店を継いでいました。私も新制中学校卒業後、手に職をつけるため、現在の東予市で丁稚奉公をするようになりました。余談ですが、先年小学校の同窓会があり、その時に集まった(男性の)同級生の7~8割までが大工でした。京阪神方面で棟梁(とうりょう)として成功しておる者も多いです。当時は家の跡取り以外は(商家も農家も)職人になって家を出るものが多く、宮浦では先輩の成功した人を頼ってか、特に家大工になる者が大部分を占めました(大三島ではつい最近まで職人としての出稼ぎが多かったが、各集落ごとに違った特定の職種に集中する傾向があった=大三島町木村三千人氏談。)。3年ほど勤めていた時に、種々の事情から書店の後を継ぐ者がいなくなり、当時まだ奉公中で定職の決まっていなかった私にやってみないかという話になったわけです。20歳になる直前の、昭和30年のことでした。」

  ② 高度経済成長期の発展

 「祖父の時代から、学校の教科書の販売を一手に引き受けていたのですが、30年に店を継いだ時も、教科書を中心とした学校関係の取扱が多かったです。当時は渡海船を通じての輸送でしたんで、ついでにということで備品や種々の学習用具等も引き受け、学校の便利屋さん的な面もありました。そのころの大山祇神社の春の大祭には、まだまだ参拝客も多く、私も店の前に戸板を置いて本を並べ売っておりました。その時に、他島から1年ぶりにやってきては買ってくれる馴染(なじみ)客もおりました。昭和35年にミゼットの三輪自動車を中古で買い、島内全域に配達ができるようになりました。教科書を山のように積んで、島の南端の小学校まで配達しよると、毎年必ず一番きつい坂の同じ登りのところで、車がめげて(壊れて)しまっては、荷物を積替えたもんです。
 昭和35年ころから、みかん景気のおかげで農家の収入が増え、生活も良くなってきたと思います。そこで私が目をつけたのは、オルガンの販売でした。40年前後は、全国的にも爆発的に売れた時期だったと思います。当時そのような楽器専門店が島に進出していなかったことも有利な点でした。雨天の日や夜分に農家を回り、また本の配達等の時に各戸に商談を進めていきました。当時はまだフェリーが就航する前でしたので、船から積み降ろして桟橋に20~30台も並べて運んでいったこともあります。全部人力でしたので大変な労働ではありましたが、この売上は大きかったです。このすぐ後くらいに百科事典のブームがあり、文学全集のブームが続きました。当時は月賦販売は私にも経験がなく、農家には春・秋の収穫期の年2回に分けて、割賦(かっぷ)で集金するようにしてました。仕入れは現金でしたから、代金を回収するまでの資金繰(ぐ)りは大変でした。ここ十数年は、四国の書店で信販(信用販売)の協同組合ができまして、全集はそこで取り扱うようになりました。その仕組みですと、私等書店には数%の手数料が入るだけで、大きなもうけはなくなりましたが、代金未払いなどのトラブルや資金繰りの苦労もなくなったので、仕事は楽になりました。しかしまあ、そのころの苦労が、その後の経営の基盤になったことは確かです。」

  ③ 埋立地「御串(みくし)通り」への進出と現在

 「昭和42年に、昔からの港横の入り江が埋立てられ、その後に町役場も現在の場所に移転していました。この埋立地を『御串通り』と名付け、分譲希望者への競争入札が行われたのが52年です。32坪の土地を坪20万円で手に入れました。建築資金を含めると2,500万円ほどの投資になりました。かなりの金額なので心配してくれる人もおりましたが、役場前・港前の立地条件の良さから、店舗としての将来性には絶対の自信がありました。またそれまでの経営もおかげを持って順調で、資金に余裕があったことも幸いでした。1年ほどは、関係の取次ぎ店・文具店に、代金の納入をそれまでの3割ほどにして待ってもらうなどの好意を受けましたが、見込通り商売を発展させることができ、今は借入金の返済を残すだけになっています。
 1万人の人口で書店1軒が成り立つと言われますが、大三島の人口も両町合わせて1万人をやや越す程度となり、学校の教科書等の販売数も年々減少してきています。経営状況としては厳しい面も多いですが、島でただ1軒の本屋として、外に買いに出てこられないお年寄りを含め、すみずみまで配達のサービスができるよう、こころがけています。
 現在長男は、2年の期限で知り合いの書店で見習をしてますが、今の商工会青年部・消防団・祭りの当番等の役職は、かなりの年配の人ばかりで早く交替したがっており、『いつ帰るんじゃ』と町をあげて一人の若者の帰りを待つような状態です。宮浦新地の青年団も男女合わせて5~6名ほどで、年寄りが亡くなって廃屋になっている家も多いです。しかし門前町としての町は残っていくと思いますし、また残していかねばならないと思っとります。御串通りに新店舗を建ててから12年になろうとしておりますので、建替えも含めてこれからも新しい取組みをしていきたいと考えています。」

図3-3-10 大三島の各集落の位置

図3-3-10 大三島の各集落の位置

―は現在の道路(高速道除く)。

図3-3-11 平成3年における越智諸島しょ部交通ルート

図3-3-11 平成3年における越智諸島しょ部交通ルート


写真3-3-10 現在の宮浦港

写真3-3-10 現在の宮浦港

平成3年12月撮影

写真3-3-12 現在の御串通り

写真3-3-12 現在の御串通り

平成3年11月撮影