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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

大三島参りの話

 これは大正の初め頃の話。年少の日に聞いたもの。温泉郡のある農村、田植えもすんで、少し暇になった7月、毎年、大三島の大山祗さんにお百姓がお参りしていた。豊作の祈願と多分にレクリエーションを兼ねたもの。米や酒など持参、三津で和船を雇って船出した。船は船頭が漕ぐ。別に急がない海の旅はよい。海水でたいた飯の味もよい。何の遠慮するものもない船中で、ふだんの労苦も忘れて酒盛り、船は船頭まかせ。
 今、ここで述べようとするのは、たまたま、夏休み東京から帰省したその村の大学生Aで、この仲間に入って見たことを話しているのを聞いて印象に残っているもの。年少の時のこと、デリケートな話はわかるはずはなかった。学生でこのような船に乗ったものはないとのこと。Aはきさくな男、村人からは頼もしく思われていたとのこと。彼は時に船頭を手伝って船を漕ぐのも楽しみであったが、村の百姓の人達の素朴で健康な話や行動には、また非常に興味ふかいものを感じたと言う。
 さて、船が三津の港を出て沖合にさしかかってくると、船中でバクチがはじまったのには驚いたと言う。もちろん、悪質なものではない。娯楽の少ない当時の田舎では、一部の者はかくれてやっていたらしい。この学生からみると、あの人がと思われる者もやっている。見る側の人もいる。勝負に強い人、よく負ける人。中には、小金のある人で、自身やりながら、負けて元のなくなった人に金貸しをやっているBを見たのには驚いたと言う。往きも帰りも負け続けている片目のC。後日の話だと言うが、8月になってある暑い日中、スゲガサを頭から背中にかけて、陽をさけ、田の中をはいながら草取りしているCの姿を見た。Cはバクチのために、大きな家も売ってしまって、広い屋敷の中、納屋を改造して住んでいた。皮肉も言うが、面白い人物。ところが、そこへ通りかかった知合いの女の人が、暑いのにえらいですなあと言うと、ねえさんこの夏はタタミの上にだいぶ肥えをして御利益があったので、いっしょう懸命、田の中をはわんといかんと言って笑っていたと言う。これは船中、ゴザの上でバクチに負けた事を言っているのだと言う。相変わらず大声で草刈歌を歌い続けていたが、あれはヤケクソも手伝っていたのか。クヨクヨしないところ。朗らかな感じさえしたと言う。
 お参りした帰りに船を御手洗につける。例のオチョロ船が近づく。分別のある年輩者も、若い盛りの者も、思い思いに、女に迎えられていく。ところが、村の有志で旦那と言われるおだやかなDが一番先に飛びついていったのには、一寸驚いたと言う。その中に、堅ぞうで通っていたEもいたと言う。この学生の話がなかったら、自分らは、船中のバクチ、オチョロ舟の話など知らなかっただろう。昔は中学以上の学校にゆく者は、村では少なかった。学生になると村人の生活に仲間入りすることは少なく従ってその本当の生活には分からないこともあった。船中でバクチによく勝って金も貸していたBは、珍しく独身、おだやかで中性でないかとさえ思われる人が、酒も、バクチにも強く、金貸をして利殖をはかることも忘れていないシンの強さには驚いたと言う。
 私は、昭和の初め、大三島にお参りした時、今治から汽船に乗って、御手洗で乗り替える時間を待つ間、海ぞいの料理店の二階にあがって食事をした。その時、とれだちのサカナを煮て、酒をつけてもって来た。サカナの味もよかったが、給仕してくれた女の人の愛想もよかった。商売女であったかどうか、無風流な自分などには知る由もなかった。やがて船に乗ると甲板に、にぎやかな旅まわりの役者の一行もいた。酔眼にうつる海の景色も船上の気分もとてもよかった。Aから聞いた大三島参りの話が思い出された。お参りと言えば、土産物がつきもの。大三島から赤いヒゲモモや鎌、御神火も持って帰ったように聞く。
 もうすぐ明治も100年、考えてみると、当時船中や港の夜泊で、しばし浮世を忘れて楽しんでいた人々も、生きておれば100才近くから80才くらいまでの人が多いことになる。大方は世を辞されたと思う。当時年少の自分がこんな回顧を書くくらいだから。話してくれたAも、すでに大戦中に鬼籍に入ったと聞く。
 話は別だが、以前に温泉郡の島方で、若松、大阪間通いの石炭船をもっていた家では、○○丸と船印を染抜いたあざやかな色のフラホ(地方ではフラフ)に□□楼よりとあったのを見たが、これは石炭船新造の場合、御手洗、木ノ江、鮒などのオチョロ船の楼主から贈られたものが、かなりあると聞いた。島方では、楼主のことをオナゴ屋とも言っていたように思う。石炭船の船方達はオチョロのおとくいでもあったからであろう。フラホの中には、家の中のカーテンに利用されているものもあった。家の中に□□楼よりのカーテンがあるのも、一寸面白い風景。フラホはかなり大きいものであった。昭和初めのあの不況時に、こう不景気では、オチョロの親方も、船がおりても(新造船進水の意)、フラホはようキル(進呈)まいと言っていた。島方では、金比羅参りの帰りには鞆の祇園さんにお参りして、土地の名産、あの甘味のある銘酒を買いこんで飲み、必ず大三島へお参りすることにしていた。木ノ江や御手洗のオチョロ船の話は色々書かれているものを見るが、幕末日本に来ていたある有名な外人も瀬戸内航行の時、港に淀泊、オチョロ船の遊女について書いているものを読んだことがある。戦後オチョロなどなくなったことは言うまでもないが、和船でゆく大三島参りは、それより大分前になくなっていた。(40・6・1記)
 「愛媛」通巻54号(⑦)より転載