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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)昭和を生きてきた漁民と今を生きている漁民の生活史

 ア 進取の気性に富む宮窪漁民

 **さん(明治41年生まれ 83歳)
 **さん(明治40年生まれ 84歳)
 **さんは百姓の出で、戦前はセメント関係の仕事をしていた。戦争中にセメントが統制となり、個人では人手が困難となった。義兄が漁業をやっていたので漁業をやることにしたが、全く経験がなかった。百姓人間が漁村から嫁をもらい漁民になったのは、宮窪では珍しいことである。
 エビこぎをやったらどうかと言われ、船に乗ったこともエンジンに触ったこともなかったが、やってみることにした。徳島県の伊島(いじま)に売る船があるというので、船を買うため現金と米をもって一人で伊島に出かけた。「伊予にも命のいらん男がいるもんじゃな。ここは太平洋ぞな。」と言われた。「太平洋じゃろと、どこじゃろと、お宅にエンジンの掛け方を教わったら帰ります。」ということで、船を買い伊島を出航しようとしたが、海がしけて1週間くらいかかって宮窪に帰ってきた。
 家内の兄は一本釣りの漁師であったが、兄と一緒にエビこぎを始めることになった。エビ網は宮窪の**さんが作っていたので、**さんに頼んで作ってもらった。早速エビこぎ漁をやってみたが、自分のやり方が悪いのか、網が悪いのか、水揚げの成績はさっぱりである。そこで、自分なりに網の構造や網目を工夫、改良して網を作成した。その網で工ビこぎ漁をしたところ、浜中で一番多く採れた。市場でも他船よりも一番多く水揚げしていた。当時は戦争中で、宮窪でも若者はほとんど戦争に行っていた。浜でもエビこぎ組合ができ、兄が会長になり、私も役員になった。エビこぎ漁に従事する船は15隻であった。エビこぎ漁の仲間からエビ網を作って欲しいと頼まれ、仕事の合間に4人ほどに網を作ってあげた。
 戦後になって、長男が広島県の呉で、海底の弾薬を引き上げる仕事に従事していたので、手伝いのためしばらく呉に行っていた。現在長男は、潜水の技術を活かしてNTTの海底ケーブルの技術者として工事に従事するかたわら、漁師として潜水漁もやっている。次男も潜水漁をやっていたが、潜水病のため亡くなった。3男は小型底引き網漁業と潜水漁をやっている。**さんは5年前に奥さんを亡くされた。今は年寄りでも操船できる小型船を持っていて、暇があれば一本釣りをして楽しんでいる。
 **さんは、子供のころから父親の一本釣りの船に乗っていた。学校を卒業してから、一本釣りとはえ網漁に従事した。昭和3年ころからタイはえ縄で五島列島にも出漁した。これは、遠海出漁ということで県からの補助金をもらった。その他、ハモはえ縄で淡路方面にも出漁した。当時は宮窪の漁民の中にも朝鮮に出漁した人もいた。
 **さんの弟が昭和6年に満州に渡り、満鉄に勤めていた。そんな関係で昭和14年に妻と次男を宮窪に残し、長男(昭和2年生まれ)を連れて中国に渡った。敗戦で、昭和21年2月27日に引き揚げてきた。引き揚げ後は漁業をやめて、生活のため、専ら船で米の買い出しをした。従兄弟が越智郡の鈍川の農家に嫁いでいたので、そこをつてにして米を買い集めた。当時は食管法がやかましく言われた時代であった。米をはじめ穀類や野菜は因島に運んでいた。米の統制が解け自由になったときに、因島の人から宮窪には魚があるだろうと言われ、昭和25年以降は魚の仲介を始め、鮮魚の運搬船を持った。
 当時の鮮魚仲介人は、沖で漁民が釣った魚や底引き網や潜水漁の魚介類を買い集め(漁民側からは、沖売りという)因島の魚市場へ運搬した。のちに組合との話し合いで、漁民から魚介類を買い取った場合、その伝票は漁協へ納入する。漁協は水揚げの4%を仲介人から徴収し、漁協が2.5%を手数料として、漁民に1.5%を還元金として渡している。現在宮窪には10人の鮮魚仲介人がいる。
 **さんは平成2年に奥さんを亡くしてから陸に上がり、鮮魚仲介業を息子さんが継いでいる。宮窪に仲介人が10人いるということは、仲介人同士の競争が起こってくる。仲介人は親類・縁者の魚介類を中心に集荷している。
 **さんは現在宮窪町老人クラブ副会長であり、**さんは宮窪町浜第2老人クラブ会長で、ともに町の世話役として活動している。二人は宮窪の漁業の将来について次のように話された。
 宮窪の漁業も戦前とは大きく変化した。戦前の漁業は一本釣りとはえ縄が漁業の中心で、その他にエビこぎ網や底引き網が始まった。戦後は一本釣りやはえ縄に変わって、小型底引き網、船引き網と潜水漁が中心となってきた。またノリの養殖やタイ類の養殖(おもに友浦)も営まれるようになった。
 港の中の漁船の数を見れば、宮窪の漁業の現状が分かるはずである。それほどに後継者の若者もおり、活気を呈しているように見える。しかし、今を満足することではなく、将来にわたって見通しを立てることが大切である。漁民自身が自らの手で漁場を守る、漁業資源を保護し増やすという考えを持ち、それを実行していくことが必要である。そのことが、宮窪の漁村が今後生き残るための第1の条件であると考える。
 つくる漁業、ふやす漁業を真剣に考えていくことも必要である。宮窪にも大きな生けすを造って、浜の築港と戸代の丸岩の沖に生けすを出して、養殖したタイを入れる。生けすの中に、ガラスの水槽も造って、周囲で観客が鑑賞したり釣り上げたりすることのできる施設を造る。宿泊客のためのホテルも建てる。宮窪に観光客がくるようになれば、海産物の土産も売れるし、施設やホテルで働くこともできる。年寄りがでしゃばることではないが、元気な間にお互いが知恵を出し合って、子孫のためにひと働きできれば、老人クラブの生きがいになるかも知れない。
 **さんも**さんも、83歳や84歳とは思えないかくしゃくとした中に、明治・大正・昭和・平成を生き抜いてきた漁民の姿を見る思いであった。

 イ 若者のいる漁村

 **さん(昭和20年生まれ 45歳)
 宮窪の漁業のうちで、潜水漁業の地位は高い。平成2年度の海面漁業・海面養殖業の経営体数244のうち、潜水漁業経営体数は81で、全体の3分の1を占めている。生産高では全体の36.5%を占め、海面漁業のみで見ると40.5%を占めている(表3-2-9・表3-2-10参照)。燧灘海域では、宮窪と言えば潜水漁業と言われるように、宮窪漁業の中心で潜水漁業の比重が高く、かつ、この漁業に従事する漁民も若者である。若者集団の団結力は強く、平成2年の愛媛県で実施された国民文化祭の海のフェスティバルでの宮窪水軍レースを復活させる原動力となった。
 宮窪に潜水器で魚介類を取る漁業が導入されたのは、大正14年(1925年)である。それまではさお取りでセトガイを取っていた。さお取りとは、樫の棒を何本か継いで20mくらいの長さにして、その先に鉄製のくま手をつけた道具である。宮窪沖の瀬戸に出て、イカリをおろして、船を固定させ、セトガイを採取していた。当時は船上から、この辺りにセトガイがいるだろうという人の勘に頼るものであった。
 大正14年に徳島県阿南市伊島(いじま)の潜水漁民が宮窪に入漁してきた。これは宮窪漁協との共同経営という形で入漁してきた。潜水夫に空気を送るための手押しポンプの労働を宮窪の漁民が受け持った。これが契機となって、宮窪漁民の間に潜水器の取り扱い方や潜水技術を修得して、潜水漁を始めるものも出てきた。
 宮窪漁民の潜水技術は戦後の沈没船の引き上げ作業、港湾施設の海底作業等で高い評価を受け、深田サルベージにも多く雇用されていた。**さんの兄さんもかつてはサルベージ会社に就職していた。**さんの息子さんも潜水の技術を生かし、NTTと契約を結び、電話線の海底ケーブル敷設にも技術者として従事している。
 昔は鉛のヘルメットをかぶり、潜水服を着て潜る。船上からは手押しポンプで空気を送っていた。漁場は瀬戸であるので潮流も速く、当時は海底を歩いて潜水漁に従事していた。水深30mくらいまで潜っていった。そのため潜水病にかかることも多かった。昭和35年ころから従来の手押しポンプからコンプレッサーによる送気に変わり、さらに、海底と船上との間で、イヤホーンによる通話が可能となった。昭和45年ころから水中で点灯できるようになり、作業の安全と効率化に役立った。服装も従来の鉛のヘルメットからウェットスーツの軽装となり、海底作業も行動が自由になった。船上ではエンジンをかけて、海中から出てくる泡について船を移動させ、潜水時間は1時間ぐらいである。採取した魚介類は網に入れ、網がいっぱいになると合図して網を交換する。
 **さんの家は代々漁家である。父親は一本釣りの漁師であった。昭和33年に宮窪中学を卒業した**さんは、当時金の卵と騒がれた集団就職で大阪に就職した。大阪の電線製造工場やクギ製造工場で働いていたが、実兄が東神戸の埋立工事のため潜水夫として働いており、潜水は金になるということで兄を頼って神戸に出た。神戸には他の宮窪の人たちが集団で来ていた。最初は船上での作業であったが、後に兄から潜水の技術を習った。1年半ほど神戸にいたが、港湾工事も終わり、昭和42年に兄と一緒に宮窪へ帰ってきた。それから兄のもとで潜水漁に従事するようになった。
 潜水漁業にも自信がつき、昭和44年に兄から独立することになった。結婚したのは昭和47年で28歳のときである。相手は同じ宮窪の人である。独立するということは、自分の船をもつということである。最初の木造船は温泉郡中島町で造った。3t船で、建造費は40万円くらいで、それにエンジンを含めると100万円くらいであった。資金は兄から借りて、借金をもって独立したことになる。借金は月払いで水揚げの中から返済していった。
 独立してから子供が大きくなるまでは、親類に頼んで同船してもらった。潜りの場合、1隻に3人が同乗するのが一般的である。潜水夫にコンプレッサーで空気を送る人、エンジンをかけ舵を受け持つ人の3人である。
 最初に造った木造船には7年乗ったが、途中でエンジンは更新した。次の船はプラスチック船となり、現在の船は潜水専用船でメーカーのものである。いま船を造るとなると、約1,200~1,300万円を必要とする。潜水漁業を始めたころは、木造船で100万円であったから、20年経過した現在は約12倍の経費がかかる。それだけに潜水漁の場合、他人を雇うと人件費で水揚げの半分を支払うので、新造船を造ると経営は苦しい。30歳代後半に体をこわして人を雇っていたが、現在は息子2人が同乗し、家族労働で潜水漁を営んでいる。家内は冬期間はセトガイのむき身作業に同じ漁村の主婦だちと一緒に働いているが、セトガイの漁期が終われば、自分の船に乗せていくこともある。セトガイを採取する潜水漁は、昭和58年には8隻であったが、平成3年には2隻となった。これはセトガイの減少によって、他の潜水漁へ転換したためである。セトガイ以外の潜水漁は春から秋は、ウニ、アワビ、サザエが対象となる。冬期にはナマコ漁である。春は底引き網漁をしてオコゼやカレイを獲っている。**さんも現在はセトガイはやっていない。
 宮窪の潜水漁場は、主に宮窪沖の共同漁業権海域であるが、80隻の潜水船が操業するには狭すぎる。現在では漁協間契約で入漁料を支払い、大三島(井ノロ)、弓削、岩城、生名の島や、波方(小部)にも出漁している。
 昔から潜水漁は他の漁業に比べて収入は良かった。現在でも潜水漁の船上の手伝いでもサラリーマン位の給料はもらえる。昔は学校を卒業すると都会に就職して行ったが、都会に出ていた者もUターンして潜水漁師になっているものも多い。昔の潜水漁は重装備で、技術を修得するにも時間がかかったが、最近はウェットスーツで軽装となり、資金も昔より少なくて済むようになった。このことが、宮窪を潜水漁の基地にした一つの要因と考えられる。
 潜水病のこわさ 昭和49年に松山沖でタイラギガイの貝柱を採っていたころ、減圧の仕方が悪く潜水病にかかった。潜水病にかかった場合、漁を休むよりほかに仕方がないが、逆に潜水すれば体は楽になる。海に入って減圧するため朝海に入って、午後3時ころまで海にいる。その当時はまだ減圧タンクも普及しておらず、命を落とした人や、体を悪くする人もいた。減圧するためには海中にいるしか方法がなかった。海中で1時間くらい減圧すれば一時的には治っていた。潜水病にかかると、体中がかゆくなり、さらにひどくなると血管の中に泡が生じ、足が立たなくなる。35歳くらいまで潜水漁に従事していたが、現在は息子さんが潜るようになり、**さんは船上作業をしている。潜水漁に従事していた当時は55kgあった体重も50kgを割るほどの重労働であった。体力のぎりぎりの限界まで潜ると、しんどすぎて深呼吸もできないほどであった。今のように船上作業に回ると、体重は80kgを超えるようになった。
 **さんの描く宮窪漁業 他の瀬戸内海の島や沿岸の漁村が、過疎化と後継者不足という問題を抱えている中で、宮窪では今のところその心配はない。それよりも、潜水漁にとって切実な問題は漁場が狭く、このままでは宮窪周辺の資源が枯渇することの心配である。アワビ、サザエの磯が欲しい。採石場の不要な石を海中に投石すれば、良い漁場(磯)を作ることができるのだが、その石は産業廃棄物ということで今のところ難しい。
 もう一つの問題として、漁師には土地がないのが寂しい。土地を持ちたいという願望は強いものかおる。漁師は港の近くに家を持ちたいが、浜は家が密集して地価が高く、なかなか買えない(写真3-2-11参照)。また自分たちが獲った魚介類を自分たちのところで販売したい。そのために魚市場を建設したい。将来本土と島が橋で結ばれ、交通が便利になると、他地域から宮窪に魚を買いに人々が訪れるようなところにしたいものである。

 ウ 浜の女性

 **さん(大正15年生まれ 65歳)
 **さん(昭和6年生まれ 60歳)
 **さんは宮窪生まれで、父親は一本釣りの漁師であった。子供のころの思い出は、父親はタイ一本釣りで、当時は無動力船であったので艪(ろ)を押して夜釣りに出ていた。朝、浜に帰ってくると、今のキャリーの大きさで8分目くらいの量のタイを釣っていた。学校が夏休みになると、両親の船に乗って、艪(ろ)を押して中島あたりまで出かけたこともあった。船に苫(とま)囲いをして、夜寝られるようにしていた。風が出ると、島陰に寄って寝たこともあった。宮窪では昔から夫婦で船に乗るのは当たり前であった。底引き網の場合なども、水揚げされた魚をより分けるのは女性である。今は機械化が進んで、男性一人でも出漁できるようになったが、一人よりも二人の方が作業も能率良く、漁獲高も多いようである。
 **さんにとっては、第2次世界大戦のころが青春時代であった。学校を卒業して昭和18~19年まで漁業協同組合に勤め、20年に一度退職し、21年に結婚した。御主人は徴兵されるまでは、今治造船所で働いていたが、敗戦によって復員した人である。結婚して3年ほどは夫婦で宮窪の対岸の伯方の有津(あろうず)の船折瀬戸でヒジキやワカメの海藻を採取していた。艪(ろ)を押して船から箱メガネを使って、さおの先に鎌(かま)をつけて切り取っていた。
 御主人は造船所の時代に身につけていた板金の経験を活かし、技術者の資格を取って、宮窪で建築・板金塗装業を営み現在にいたっている。
 **さんは昭和35年から再び漁協に勤めるようになり、昭和61年まで25年勤めた。子供は、女2人・男1人の3人であり、長男は東京の大学を出て千葉でコンピュータ関係の企業に勤めている。女の子も結婚して横浜の方に住んでいる。
 **さんは現在、宮窪漁協婦人部の宮窪地区婦人会長として、女性のリーダーとして地域のために活躍している。漁協婦入部としては生活改善の運動として、底引き網で漁獲されたエソのミリン干しを、県の技術センターで研修を受けて製造している。 11月の文化祭や県民文化会館での愛媛産業まつりにも出品した。エソだけでなく小魚類の活用と商品化も考えている。
 浜の主婦たちは、農家の主婦よりも、漁業という仕事上はしかいところもあるが、気性はいたってさっぱりしている。また、お互いが助け合ったり協力したり、団結することは強いものかある。主婦としては夫と共に漁船に乗って漁業に従事する者もいるが、冬場のセトガイの時期は作業場で、抜き身作業に従事する女性もある。さらに、現在では数は少なくなったが、鮮魚行商をする人も5人ほどいる。
 **さんも宮窪生まれの漁家の出である。父親ははえ縄漁で漁協に勤めていた。昭和33年に結婚した。ご主人は戦争中は学徒動員で因島の造船所で働いていた。結婚して10年くらいはイワシ巾着(きんちゃく)網で出稼ぎしたり、潜水漁に従事していた。その後、鮮魚仲介を始めた。宮窪の他の仲介人は、因島か尾道の魚市場へ運搬したが、**さんは京阪神市場へ出荷した最初の仲介人である。
 **さんの子供は男二人であったが、長男を事故で亡くし、次男は今東京にいる。今は御主人との二人暮らしである。**さんは鮮魚仲介業について、仲介が宮窪で10人となると仲介人同士の競争も出てくる。昔は沖で直接漁師から買っていたときもあったが、現在は漁師が帰港して自分の取り引きの仲介人に漁獲物を渡すようになった。宮窪では、親類・縁者の身内がいないと仲介業は難しい。昔に比べて漁獲量は減っている。魚価は上がらず人件費は上がってきているし、外国からの輸人物が増加して仲介業も大変苦しい立場に置かれるようになった。

写真3-2-11 宮窪町浜の公営住宅

写真3-2-11 宮窪町浜の公営住宅

平成3年10月撮影