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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)離島の中から日本一を目指す島

 ア 島の漁業

 燧灘のほぼ中央部に位置する魚島は、昔からタイ漁業の中心として知られたところである。島の産土神社である亀居八幡神社の境内に多くの奉納された灯ろうがあるが、その中に天保12年(1841年)胡網奉寄進と刻まれたものがある。そのことは当時から魚島がタイの漁場として活気を呈していたことを物語る証拠であろう。
 上方には、「魚島がきた」という表現がある。4月に入り桜が満開の時期に、瀬戸内海に入ってきたマダイは鮮やかな赤色を呈するようになる。豊後水道と紀伊水道の東西から入ってくるタイは、八十八夜を前後して魚島周辺を産卵場とする。そのためタイ網の漁期は、八十八夜を中心にその前後50日間に及んだ。この時期のタイを桜鯛と呼び、上方市場では魚島周辺海域のタイの漁獲高の多少が直ちにタイ相場に反映したと言われることから、「魚島がきた」とは桜鯛の季節を表す代名詞ともなった。
 魚島のタイは、船引き葛(かずら)網漁業で操業されてきたもので、この漁業は中世以来瀬戸内海に発達したものである。明治20年代になって従来の葛網に変わってタイ縛り網漁業が普及してきた。以後大正年間まで魚島近海は愛媛、香川、広島の業者が20~30統入漁していた。江ノ島の吉田磯が最も有名で、多いときは一網に40,000尾を超えた水揚げの記録もある(⑲)。全盛を極めた魚島のタイ縛り網漁業も昭和に入るとともに衰退し、昭和4年に3統あった網も水揚げ不振で廃業し、その後桝(ます)網や吾智(ごち)網に変わり経営も小規模化していった。
 一方、タイ縛り網とともに魚島漁業で特筆すべきものに朝鮮出漁(⑳)がある。明治26年(1893年)に、イワシ網漁業で出漁し好成績をあげたので、それに刺激され、明治38年(1905年)には出漁船舶20隻、177名の出漁者を数えるようになった。明治45年には魚島組を設立して操業するほどであったが、大正3年(1914年)に解散し個人経営に移行している。この朝鮮出漁も第2次世界大戦の激化とともに衰退していった。
 第2次世界大戦の敗戦にともなう外地からの引揚げ者や、都市に出ていた島の人々の帰島などで島の人口は急激に増加した。昭和25年には世帯数343世帯、人口1,549人を記録した(この記録は明治43年(1900年)の戸数253戸、人口1,604人に匹敵する)。
 昭和24年の新漁業法の実施は、漁業権を漁業協同組合に所有させ、漁業協同組合に所属する漁民に漁業権を行使させた。その結果、従来あった資本と労働力を多く必要とする網漁業が衰退し、網主と網子、親分と子分という従属関係も解体され、独立自営漁民が成長することになった。戦後の人口増は当然島の漁業に従事する経営体の増加をきたし、101経営体(昭和33年11月1日現在)となっている。その後の島の世帯数及び人口は、5年ごとの国勢調査からも分かるように、昭和40年には世帯数285世帯、人口1,049人で、昭和25年に比し世帯数で58世帯、人口で500人の減である。このことは、昭和30年代に入って我が国経済の高度成長に伴う人口流出によるものであり、その後も若い世代の人口流出は続き、その結果島の人口の自然増は抑えられ、平成3年で397人となった。とくに昭和45年が700人台、昭和50年が600人台、昭和55年が500人台、昭和60年から400人台と急激な過疎化が進行した。人口減は当然島の漁業経営にも反映し、昭和63年11月1日のセンサスで65経営体と激減している。島の漁業は戦車こぎ網漁業を中心とする底引き網漁業と定置網漁業及び高井神島を主体とするノリ養殖業が現在の島の代表的漁業である(㉑)。

 イ 村の行政の取り組み

 魚島村は、面積が県下で一番小さな村である。魚島村が昭和28年に制定された離島振興法の適用を受けるのは、昭和32年の第6次の指定からである。魚島を訪れた人がまず驚くことは、篠塚漁港が整備され、立派な公共施設が集落の前面に建っていることである。これらの公共施設は、昭和39年よりの篠塚漁港修築事業により、海岸線の埋め立てによる造成地に順次建設されたものである(写真3-2-7参照)(㉒)。また、島の最大の悩みである水問題の解決のため、貯水施設(50tと30t)と各戸を結ぶ簡易水道の配管工事を実施して、広島県三原市より給水船による水の購入を開始したのが、昭和50年4月18日であった。同時に島内の水源を縦穴と横穴のボーリングで井戸を掘り、井戸の底から山手へ向けて横穴水平ボーリングで取水することに成功した。島内の取水量は平成元年度で12,822m³、購入水は17,864m³である。ここに簡易水道も24時間給水が実現し、水の悩みを解消することができた(㉓)。
 さらに平成元年度より着工したコミュニティプラント(地域し尿処理施設整備事業)は平成4年3月に完成し、各家庭の水洗便所の配管接続ができたところから、供用を開始できるようになった。
 昭和43年8月12日に海底ケーブルによる電気導入で従来の夜間のみの点灯から24時間点灯が実現した。この水問題の解決と24時間点灯は島民の生活面での向上に役立ったばかりでなく、産業振興にも大いに役立っている。ノリ養殖においては加工過程で水は不可欠のことであり、電気の導入はノリ加工の自動化を可能にし、省力化と経営規模拡大に貢献した。さらに大型冷蔵施設は、魚介類やノリ網の保管が容易となり漁業振興に役立っている(㉓)。
 電話についても、昭和48年10月に54台の増設が認められ、昭和45年12月に設置された174台の電話とあわせると、当時は魚島村が電話普及率日本一となった(㉓)。
 昭和58年7月20日に完成した魚島村開発センターは4階建てで、隣の役場と結ばれている。離島の公共施設として全国初のエレベーター付きの建物である。
 離島の悩みは島民の足となる連絡船であるが、昭和38年3月に進水した村営の「うおしま」74t、旅客定員90人の鋼船であった(「第3うおしま」就航により廃船処分して魚礁として沈船させた。)。昭和49年3月に86t、旅客定員95人、280馬力、冷暖房、テレビ、船舶電話、レーダーの施設の鋼船が就航した。さらに、昭和55年3月に「第3うおしま」80t、旅客定員75人、480馬力の旅客船が就航し、「第2うおしま」「第3うおしま」が交替で1日4便で魚島-弓削間を1時間10分で結んでいる(写真3-2-8参照)(㉓)。
 さらに離島問題には島民の医療が挙げられる。従来からあった診療所を昭和48年3月に鉄筋コンクリート造り一部3階建て、延べ面積308m²の診療所に改築した。診療にあたる医師の住宅も、昭和54年3月に鉄筋コンクリート造り2階建て、延べ面積167m²、7部屋、屋上には庭園も造り、魚島村で一番立派な住宅が完成した(㉓)。
 島の過疎対策、活性化はなんといっても漁業振興である。昭和38年度から漁港整備計画による事業によって、港内泊地8,330m²の港から防波堤延長363m、泊地も3倍に拡大され、埋立て地12,600m²に前述した公営施設や漁業用作業場が確保された(㉓)。
 魚島は燧灘の中央に位置しており、瀬戸内海においては恵まれた漁場である。しかしながら戦後の乱獲と他地域からの違反侵漁は魚島周辺の漁場を荒廃させてきた。魚島で漁業振興のために力を注いでいるのは、人工魚礁の造成である。島の周辺にコンクリートブロック魚礁、築磯魚礁、廃車バス・廃船による魚礁と、毎年漁場造成事業を実施している(㉑)。
 魚島村は、「日本一の村作り」を目指してハード面での基盤整備がなされてきた。さらに過疎化、老齢化が急速に進展していく中で、ソフト面での人材養成と島の後継者確保にどう取り組むか、アイデアと実践力でより一層の効果的施策を期待するものである。

写真3-2-7 魚島の集落と公共施設

写真3-2-7 魚島の集落と公共施設

魚島の集落。海岸の埋立と港の整備事業と並行して建てられた公共施設。平成4年3月撮影

写真3-2-8 島民の足 魚島-弓削間連絡船

写真3-2-8 島民の足 魚島-弓削間連絡船

離島航路魚島~弓削間を1日4往復する村営定期船「第3うおしま」。平成3年10月撮影