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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)活発だった農協婦人部活動

 昭和30年代のミカン発展期から、今日に至る中島農業の中で、農家の主婦たちが果たした役割は大きい。特に中島町にあっては、農協婦人部の活動を見逃すことはできない。
 **さんは、この時代の経緯について、「30年代の農業の発展期には、女性の存在は余り目立たなかった。どこの家でも主婦は、夫の言われるままにハイハイと聞いてその仕事を手伝っておれば、物事は大体前向きに進んでいた。ところが開墾に次ぐ開墾でミカン園が手広くなると、言われるままの作業では間に合わなくなり、自分の判断で進んで仕事を片付けなければ、手遅れになることもでてきた。そこで40年代に入ってからは、婦人も表面にでてきて仕事をするようになったし、さらに50年代に入れば、今度は主婦が中心とならなければならない時代になってきた。」と語る。
 **さんが中島町農協婦人部長を担当したのは、昭和46年から51年にかけてであり、中島町のミカン農家が、全国的な過剰生産のあおりを受けて、大きく揺れ動いているさなかであった。
 彼女の取り組んだ活動のはじめは、まずミカン価格の低下によって生じた収入減を埋め合わせるため、自給品の利活用運動からである。中島町ではそのころ、田畑のほとんどはミカン園に切り替えていて、日常使う野菜さえも購入する農家が増えていた。「現金支出を抑えるためには、せめて野菜作りは自分たちの手で。」ということから、農業改良普及員の指導で共同の野菜苗作りを行い、それぞれの会員に配布して家庭菜園に取り組んだ。また過剰傾向にあるミカンを利用して、ジュースやミカンのビン詰め加工を自分たちで行い、その愛用運動を進めることとした。さらに農村部では冠婚葬祭に際して人の集まりが多く、その都度食器類の準備に苦労をすることがあった。これらの食器類を一括購入して、必要な人にはいつでも貸出しができるようにするなど、常に身近な問題から活動を展開していった。
 次第に主婦への負担が重くなりつつあった農業生産への学習会も会員の関心は高かった。うまいミカン作りが提唱され、量より質の時代に入ると、摘果や薬剤散布が問題となってくる。また、品種更新に必要な高接ぎ技術を身に付けなければならない。このようになると、主婦の技術水準が極めて重要な意味をもち、その道の専門家による生産技術講習会を度々開くことがあった。活動最盛期当時の中島町農協婦入部の会員数は1,100人にも達し、農業を担当する主婦は、ほとんどこの組織に加盟していたという。
 **さんは、農協婦人部長当時の5年間の活動をまとめて、「家の光、愛媛県大会」(農協関係雑誌の大会)で発表したところ、高い評価を受けて県代表に選ばれ、全国大会でも中島町農協婦人部の活動が絶賛された。