データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)「結婚10年世を貰うまで」

 昭和27年、夫の**さんが23歳、**さんが19歳の時、**家に新しいカップルが誕生した。**さんは分家筋の次男坊であり、両家の間では早くから、将来は一緒にとの取り決めがあったようである。
 **さんたちの結婚当初の農業情勢は、戦後の厳しい食糧難から次第に緩和の兆しが見え始めたころであり、昭和30年には、米の生産量は約15万9千tとなった。戦中・戦後を通じて減退し続けていた生産量が、ついに戦前の水準を上回ったのである。また麦類も昭和29年に戦前の水準を突破し、戦後の最高を記録している。戦争中から増産を続けてきたサツマイモも、昭和30年には戦前平均の2.2倍に達するなど、関係機関をあげての食糧増産対策が、ようやく実を結んだのである。
 戦前から、米の供出を続けてきた**さんの水田も、昭和31年ころにはその必要がなくなり、当時中島一帯で急速に伸びつつあったミカン園への転換を進めることになった。畑のほうも傾斜地はミカン園、段なりの良いところはショウガ、タマネギの作付体系から、順次ミカンの面積を増やすことに意を注いできた。
 中島地方では、「結婚10年世に貰うまで」という言葉がある。つまり結婚後10年間は家長としての権限は親が持ち、その後新世代に移譲される習慣である。**さんの場合も、田畑の仕事は若夫婦に任されたものの、経済の実権は父親が握っていたので、なかなか思うような転換には至りにくい。父は「わしが農業をやっていた時からみると、収入が減ってきた。」とこぼし、**さんは「ミカンの苗木を植えれば、それが一人前に育つまで、当面の収入に影響が出てくるのは当たり前。」と意見の異なることもあった。しかしそこは一族同士の良さも手伝って、それ以上のいさかいに発展することはない。若夫婦も、実権移譲までは必要に応じて父から小遣いを貰っていたが、**さんが時々は農外収入を得ることもあって、それほど不自由を感じたことはなかったという。長男、長女の二人の子供たちは、「**家の生えぬき」と祖父母にかわいがられ、教材やおやつなども十分満ちたりていたようである。
 このような生活に一区切りがつき、経営・経済の実権移譲が行われたのは、やはり中島流で言われる「10年一辛抱」の後であり、**さん33歳、**さん29歳の元気盛りのころであった。結婚当初から植え始めたミカンの苗木も、そろそろ収穫できるようになり、そのころからエンジンフル回転のミカン農業へ、新経営主夫婦の足並みは揃った。
 ところで小浜集落では、**さんたちの前の世代までは、家の経済はほとんど男性がとり仕切り、主婦は自分の財布を持つことがなかった。家事や育児に際しても、「豆腐代いくら」とその都度、夫から必要経費を渡されるのが普通の状態であった。ところが、**さんたち戦後の世代では、主婦が日常生活の経済を担当することはもう常識となっていた。たまたま家に遊びにきていた夫の母は、**さんが夫にタバコ代を渡すのを見ていて、「今の若い人はええことよのう、私らはこのようなことはなかった。」と語り、「これまで、一度も財布のひもを握ったことがないので、せめて3日でも主人より長生きして、自分の手でお金を出し入れしてみたい。」と話したのを聞き、古い時代に生きた女性の立場を、とても気の毒に感じたとのことである。