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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(5)水田まで掘り起こしたミカンブーム

 戦後の食糧難がひとまず落ち着さ、昭和25~26年に至ると、それまでコメ・ムギ・サツマイモ中心の農業から果樹・野菜などの商品作物の生産へ移り変わりがみられるようになった。とくに昭和30年代の後半に入り、農業生産の選択的拡大が叫ばれるようになると、果樹・野菜・畜産などの作目が急速な伸びを示した。
 とくに本県における果樹の伸びは著しく、農業構造改善事業などの施策も加わって、ミカンを中心に開園・新植が大幅に進んだ(図3-1-9参照)。
 上浦町など、越智郡島しよ部においても、当然ミカン栽培への機運が高まりつつあったが、他の地域よりも一呼吸おいたのは、すでに換金作物として島の農業に定着していた除虫菊、葉タバコの栽培が続けられていたためである。これらの作物もまた、大正の初めから昭和にかけての長い期間、島の農業の収入源として活躍した実績を持っている。
 **さんは、昭和37年まで葉タバコ作りを続けてきた。葉タバコは専売制がしかれているため、価格は安定し、他の作物のように豊作貧乏はない。しかし、10a当たりの所要労働力は100人役を超す重労働であり、1戸当たりの栽培面積には限界があった。その点ミカン作りは、10a当たりの所要労働力が35~40人役で問に合うから規模拡大がやりやすい。それに国民経済の伸びにつれて、ミカンの売れ行きも上向きであり、昭和37年産のミカンの販売価格は10a当たり177,800円(県平均)、肥料代や農薬代などの生産経費(第1次生産費)67,000円を差し引いても、およそ110,000円は手元に残るという状態にあったから、どの作物よりも収入が多かった。ちなみに同年における**さんたちの葉タバコ作りは、10a当たり103,000円の収納代金(粗収入)であったことから、ミカンとの差は大きく開いた。このことが、**さんたちに「これはもう、ミカンじゃなきゃあ、いけん」という意識を強く持たせることになった。**さんには、祖父が遺した2反歩(20a)のミカン園があることは前述のとおりである。昭和の初めに植え付けられたこのミカンは、およそ30年生に育っていて、ミカンの木としては一番の働き盛りである。「孫が喜ぶだろうから」と念じた祖父の思いは、予期以上に大きく実を結び、生計を潤すことに役立っていた。
 そのころ、ミカン1反歩あれば、5反歩分の米が買えると言われていた時代である。**さんの周辺でも、近隣の集落でもこれまでの農業の大黒柱であり、農家財産の一つの目安となっていた水田が、次々と掘り返されていった。ミカン類を植え付けるためにである。ただでさえ水田の少ない、島しょ部にあっては、米の作れる一等田は家の宝であり、これを掘り起こして畑に変えることなどは、及びもつかない出来事であった。46年に打ち出された米の減反政策以前の時期であっただけに、この水田を大切に守ってきた年寄りたちは、時の勢いにただただ驚いて顔を見合わせるばかりであった。この水田のミカン園転換は、所得倍増を目指した経営改善に通ずるものであり、我が国における水田農業の一つの方向を示唆するものとして印象づけられた(図3-1-10参照)。

図3-1-9 愛媛県の柑橘生産量

図3-1-9 愛媛県の柑橘生産量

「愛媛青果連30年の歩み(⑫)」より作成。

図3-1-10 上浦町耕地面積の変遷

図3-1-10 上浦町耕地面積の変遷

「愛媛県市町村別統計要覧(⑪)」より作成。