生涯学習愛媛 bU0(平成17年3月発行)


 
愛媛人物博物館(県民メモリアルホール)紹介 
人 物 博 物 館 

生涯学習センター内の県民メモリアルホールでは、本県ゆかりの先人 を紹介し、 関係資料を展示しています。
今回は、真鍋嘉一郎を紹介します。
 
医聖
真鍋嘉一郎(まなべかいちろう)
(1878〜1941) 
 今回は、日本の物理療法の草分けとして「医聖」と称された真鍋嘉一郎について紹介します。
 真鍋は明治11(1878)年に新居郡大町村(現西条市大町)に生まれ、5歳のときに父を失い、貧しい家計の中で育ちました。 苦学して西条高等小学校から松山中学校、第一高等学校、東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)へと進み、すべての学 校を首席で通しました。
 大学卒業後は、母校に奉職し、明治44(1911)年から3年間ドイツに留学しました。この時、出会ったのが野口英世で、 二人の交流は野口が亡くなるまで続きました。
 帰国後、内科の治療にレントゲン線、ラジウム鉱泉、電気などを利用する物理療法の導入に努め、大正15(1926)年には 東京帝国大学教授に就任し、内科物理療法学の講座を開きました。特に、温泉療法の導入やX線治療で「レントゲン」の呼称 を初めて使用し定着させた功績は高く評価されています。
 真鍋は、学位などに一切関心を持たず、「医学の最後の目的は治すことだ」と臨床医に徹し、夏目漱石や浜口雄幸首相らの 著名人をはじめ、多くの患者が彼の診察を求め「外来の真鍋」と称されるほどでした。
 夏目漱石との出会いは、松山中学時代にさかのぼります。明治28(1895)年に新任の英語教師として赴任してきたのが夏目漱石でした。 英語の授業中に、辞書を根拠に漱石先生の間違いを指摘した真鍋に、漱石は少しも慌てず、「辞書が間違っている。直しておけ」と言って 授業を続けました。真鍋も、これには参り「偉い先生が来たものだ」と敬服するとともに、漱石からは、以後多くの薫陶を得たと述懐しています。 そして、後年、真鍋は漱石の主治医となり、その最期を看取ることになりました。
 患者に対して優しく接する一方、門下生に対しては、講義、外来診察、病室回診などあらゆる場をとらえ厳しく丁寧に指導し、多くの医師を育てました。そして、昭和16(1941)年、ガンのために64歳で亡くなりました。
愛媛人物博物館(県民メモリアルホール)では、真鍋ゆかりの品々(表彰状・写真・論文等)を展示しています。ぜひご覧ください。

▲生家碑(西条市樽本神社社内)
 


愛媛人物博物館(県民メモリアルホール)の見どころ

 愛媛人物博物館では、愛媛にゆかりのある偉人・賢人の業績や資料を、学問、教育、政治・行政、産業、社会、芸術、文芸、芸能、スポーツの9分野に分けて、5つの展示室で紹介・展示しています。
 さて、今回は、教育基本法の骨子案作りや六・三制、小中学校の義務教育制などを政府に提案し、戦後の民主教育の確立に尽力した安倍能成に関わる資料を紹介します。
 次の資料は、詩人の斎藤茂吉が、昭和21年に現在の東京国立博物館長に就任した能成に送ったお祝いの書簡です。封筒の下のシールは、当時、日本を占領していたGHQが書簡の 内容を検閲したことを示すものです。その他にも、和辻哲郎、谷崎潤一郎、吉田茂等から能成にあてた多くの書簡を展示しています。




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