生涯学習愛媛 bT9(平成16年12月発行)

まなびピア2004特集A
えひめ人物探訪フォーラム

「安部能成の足跡をたどって」 松山子規会理事
今村 威(たけし)
松山北高等学校校長
戒田 淳(じゅん)


 
 安倍能成(一八八三〜一九六六)は、明治十六年松山市小唐人町(現在の大街道二丁目)に、町医者の八男として生まれた。父義任から儒学を学び、松山中学時代には、雑誌『中学世界』などを通して、東西の思想を学ぶ。この時期確立された「正直第一」の人生観は、終生変わることがなかった。
 第一高等学校を経て、東京帝国大学さらに大学院に進学し、スピノザやカントの哲学を学ぶ。大正十五年、京城帝国大学教授となり、赴任中は、官憲や軍部が、世界的に特異な日本文化を、朝鮮民族に押しつける不当さを、常に主張し続けた。昭和十五年から二十年まで、第一高等学校校長に就任する。軍部の圧力から教育の自由を守るのに苦労したが、反面生徒に対しては、一高生というエリート意識を強く戒めてもいる。
 一部軍部の横行を許した結果、敗戦の憂き目を見た反省に立って、安倍が書いた論文「剛毅と真実と智慧を」は、雑誌『世界』昭和二十一年一月号の巻頭に掲載され、敗戦後の混乱にあえぐ日本国民を勇気づけた。安倍はその中で、国家社会と国民個々の生活との関連を自覚せよと訴え、武力でなく、文化と道義による国家の建設以外に、日本再建の道はないと述べている。この主張は、後に安倍が委員長を務めた「憲法改正案特別委員会」の草案のもとに生まれた「日本国憲法」の骨子「主権在民」と「戦争放棄」に反映される。
 安倍は昭和二十一年一月から五月まで、幣原内閣の文部大臣を務めたが、三月に訪れた米国教育使節団に対するあいさつでは、アメリカが戦勝国の立場から、日本文化の特異性を無視した改革をしないよう、堂々と主張していて、その真情あふれる態度によって、アメリカからも深い信用を得た。
 そのほか安倍は、国語調査会会長として「現代かなづかい」を制定、教育刷新委員会委員長として「教育基本法」「学校教育法」を制定、権力や学歴偏重を教育から排除することに努めた。
 戦後安倍は、皇室の後ろ盾を失った学習院の院長に就任し、学習院の開放、存続、発展のため、晩年まで心血を注いだ。
 今日、バブル崩壊以後の日本人は、自信を失い、精神面の退廃は、目を被うばかりである。この時にあたり、安倍が敗戦後の混乱から日本の再生に苦心した姿は、我々に大きな示唆を与えてくれるに違いない

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