| 明治44(1911)年1月15日 |
松山市に生まれる。 |
| 大正5(1916)年 |
父母の離婚に伴い、福岡県八幡市に移る。 |
| 大正11(1922)年 |
八幡市の中学に入学、中学三年の時に母の里である今治の中学に転校。 |
| 大正14(1925)年 |
「雄呂血」を見て映画に病みつきになる。 |
| 昭和2(1927)年 |
松山高等学校(現愛媛大学)に入学。 |
| 昭和8(1933)年 |
京都帝国大学を卒業し、日活太秦撮影所の脚本研究生となる。 |
| 昭和9(1934)年 |
記録としてついた伊藤大輔監督の「忠臣蔵」封切り。 |
| 昭和11(1936)年 |
新興キネマに移る。監督としてデビューとなる新興キネマ作品「仇討膝栗毛」封切り。 |
| 昭和17(1942)年 |
監督作品「三代の盃」完成直後、出征。 |
| 昭和21(1946)年 |
復員。監督作品「手袋を脱がす男」封切り。 |
| 昭和22(1947)年 |
監督作品「婦人警官」封切り。 |
| 昭和23(1948)年 |
監督作品「山猫令嬢」封切り。演出をしたエノケンプロ作品「極楽夫婦」封切り。 |
| 昭和26(1951)年 |
長谷川一夫主演の監督作品「銭形平次」封切り。以来シリーズ化する。 |
| 昭和27(1952)年 |
東宝に招かれ、黒澤明脚本の監督作品「決闘鍵屋の辻」封切り。 |
| 昭和42(1967)年 |
市川雷蔵主演の監督作品「ある殺し屋」封切り。 |
| 平成元(1989)年6月29日 |
78歳で永眠。 |