| 元禄12(1699)年 |
松山藩士の家に生まれる。 |
| 正徳3(1713)年 |
藩主松平定英の御側役として、仕え始める。 |
| 享保8(1723)年 |
江戸詰となり、奉行用人・徳川家献門方などを歴任し、俸禄500石を支給される。 |
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この江戸詰の間、佐久間長水に俳諧を学ぶ。 |
| 延享元(1744)年11月 |
小倉志山編『俳諧霜夜塚』刊行。五雲の句が収められている。 |
| 宝暦元(1751)年 |
江戸常府の番頭となる。 |
| 10月 |
久万地方の俳諧の中心人物であった佐伯寿風の追悼集『十夜の霜』刊行。五雲による序文が載せられている。 |
| 明和6(1769)年 |
帰郷し、伊予で俳諧を指導。帰郷に際し、俳友・門弟たちにより送別の句会が催され、その時の句を息子が編集し、『矢立の露』として刊行。 |
| 安永元(1772)年 |
明和8年からの句が、『大名竹』として編集され、刊行される。 |
| 12月22日 |
74歳で永眠。 |