 |

映画監督。脚本家。松山市湊町出身。本名は池内義豊。はじめ画家を志していたが、終生の友である伊藤大輔の紹介で、谷崎十郎プロで役者をしながらシナリオを書き始める。その後、片岡千恵蔵プロに入社し、監督の道を歩む。風刺とナンセンスの鋭い傑作喜劇「国士無双」を発表した頃より、伊丹の演出にはユニークな風格と独自の大きなリズムが見られるようになった。中でも、新興キネマ時代に監督した「赤西蠣太」は、志賀直哉の短編を脚色・演出した作品で、伊丹の最高傑作とされている。同じ映画監督の伊丹十三は万作の長男、作家の大江健三郎は娘婿である。
略歴
| 明治33(1900)年1月2日 |
松山市湊町に生まれる。 |
| 大正6(1917)年3月 |
松山中学校(現松山東高等学校)を卒業。 |
|
(松山中学校時代より、伊藤大輔・重松鶴之助と親交を深める。) |
| 大正7(1918)年 |
『少年世界』に挿絵類を描き始める。 |
| 大正9(1920)年 |
池内愚美の号で、雑誌の挿絵類を描く。 |
|
俳優学校に進んだ伊藤大輔と同居。 |
| 昭和2(1927)年 |
伊藤大輔を頼って京都に行き、「花火」等のシナリオを書く。 |
| 昭和3(1928)年 |
片岡千恵蔵プロダクションにシナリオ・ライター兼助監督として入社。ペン・ネームを伊丹万作とする。 |
|
自身執筆の初監督作品「仇討流転」封切り。 |
| 昭和7(1932)年 |
作品「国士無双」封切り。 |
| 昭和9(1934)年 |
伊藤大輔と共同の監督作品「忠臣蔵刃傷篇復讐篇」封切り。 |
|
新興キネマにトーキー専門監督として入社。 |
| 昭和10(1935)年 |
自己のトーキー第1作「忠次売出す」封切り。 |
| 昭和11(1936)年 |
監督作品「赤西蠣太」封切り。 |
| 昭和12(1937)年 |
評論感想集『影画雑記』を刊行。 |
| 昭和13(1938)年 |
胸を病み、病気療養の生活に入る。 |
| 昭和21(1946)年9月21日 |
47歳で永眠。墓所は砥部町理正院。 |
<関連図書>
- 伊丹万作『静臥後記』 大雅堂 1946年
- 岸松雄『日本映画人傳』 早川書房 1953年
- 伊丹万作『伊丹万作全集』(全3巻) 筑摩書房 1961年
- 伊丹万作『伊丹万作エッセイ集』 筑摩書房 1971年
- 愛媛子どものための伝記刊行会『愛媛子どものための伝記 第5巻 森律子・井上正夫・伊丹万作』 愛媛県教育会 1984年
- 冨士田元彦『映画作家 伊丹万作』 筑摩書房 1985年
- 米田義一『伊丹万作』 武蔵野書房 1985年
- 『講座日本映画3 トーキーの時代』 岩波書店 1986年
- 菅雅男『伊丹万作試論』 青龍社 1991年
(肖像画:愛媛県立松山東高等学校蔵)
|
|