愛媛の偉人・賢人の紹介
伊達 宗城 だて むねなり (1818〜1892)

 宇和島・伊達家第8代藩主。江戸(現東京都)の旗本山口直勝邸に生まれる。宇和島藩藩主となって以来、文武を奨励し、蘭学の導入を積極的に図り、二宮敬作を重用したり、高野長英や村田蔵六(大村益次郎)を招いて、蘭書翻訳・蘭学教授・砲台設計・軍艦建造などにあたらせたりした。幕末期には、将軍継嗣問題などの幕政にも関与し、安政の大獄に関係して隠居したが、幕末四賢侯の一人に数えられるほどの開明的な発想の持ち主であった。明治政府では、議定・大蔵卿・清国への欽差大臣・修史館副総裁などを歴任した。

略歴
文政元(1818)年8月1日 旗本の山口直勝の次男として生まれる。
文政12(1829)年4月13日 宇和島藩第7代藩主伊達宗紀の養子となる。
天保15(1844)年7月26日 宇和島藩藩主となる。
嘉永元(1848)年 高野長英を招き、蘭書の翻訳や教授などを行わせる。
嘉永6(1853)年 村田蔵六を招き、蘭書の翻訳や教授、軍艦建造などに携わらせる。
安政4(1857)年 将軍継嗣問題が起こり、松平慶永・山内豊信・島津斉彬たちとともに一橋慶喜を推し、和歌山藩主徳川慶福を推す南紀派と翌年まで対立する。
安政5(1858)年11月23日 安政の大獄に関係し、隠居。宗徳に藩主を譲る。
文久2(1862)年11月 京へ上るよう勅命が下る。
文久2(1862)年12月18日 入京。以後、同3年、慶応3年3月、12月と、4度の勅命による上京をし、その間幕政参謀や朝政参与を命じられる。
慶応3(1867)年 新政府の議定となる。以後、明治2年までに、軍事参謀・外国掛・外国事務総督・大阪裁判所副総督・外国官知事・参議・民部卿・大蔵卿を歴任あるいは兼任。
明治4(1871)年5月 清国への欽差全権大臣となり、日清修好条規を締結。
明治25(1892)年12月20日 東京府今戸(現東京都)の自邸で、75歳で永眠。墓所は東京都谷中墓地。遺髪を宇和島市等覚寺に埋葬。

<関連図書>
  • 藩主人名事典編纂委員会『三百藩藩主人名事典 第4巻』 新人物往来社 1986年
  • 愛媛子どものための伝記刊行会『愛媛子どものための伝記 第15巻 伊達宗城・久松松平家の人々・土居清良』 愛媛県教育会 1987年
  • 愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 近世下』 愛媛県 1987年
  • 愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 人物』 愛媛県 1989年
  • 日本史籍協会『伊達宗城在京日記』 東京大学出版会 1995年
  • 楠精一郎『列伝・日本近代史 伊達宗城から岸信介まで』 朝日新聞社 2000年
(写真提供:財団法人宇和島伊達文化保存会)

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