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第一展示室(学問)
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名前 生年・没年 説明
中江 藤樹
ナカエ トウジュ
1608
~1648
我が国陽明学
の始祖
近江国高島郡小川村(現滋賀県)生まれ。9歳の頃伊予国に来て、長じて大洲藩家臣となる。朱子学を学び、後、近江に帰り陽明学を究め「近江聖人」と呼ばれた。
尾藤 二洲
ビトウ ジシュウ
1747
~1813
儒学者 宇摩郡川之江村(現四国中央市川之江町)生まれ。大坂(現大阪)に出て、苦学の末私塾を開き朱子学の普及に尽くす。幕命で就任した昌平黌教授を約20年間務め、寛政の三博士の一人といわれた。
青地 林宗
アオチ リンソウ
1755
~1833
蘭学者 松山城下(現松山市)生まれ。松山藩医の家に生まれる。杉田玄白の門下生として蘭学を修め、幕府天文方の翻訳方となる。『気海観瀾』を著し、我が国に初めて物理学を紹介した。
近藤 篤山
コンドウ トクザン
1766
~1846
儒学者 宇摩郡小林村(現四国中央市土居町)生まれ。大坂(大阪)で尾藤二洲に朱子学を学ぶ。川之江に開塾後、小松藩に招かれ、子弟の教育にあたり「徳行天下第一」と称され「伊予聖人」といわれた。
高野 長英
タカノ チョウエイ
1804
~1850
蘭学者 陸奥国胆沢郡水沢(岩手県)生まれ。『戊戌夢物語』で幕政を批判し投獄されたが、脱獄して宇和島を訪れ、藩士に蘭学を教え、兵書の翻訳や御荘砲台の設計などを行った。
二宮 敬作
ニノミヤ ケイサク
1804
~1862
蘭学者 宇和郡磯崎浦(現八幡浜市保内町)生まれ。長崎でシーボルトの門人となり、シーボルト事件で連座し帰郷。宇和島藩に仕えながら卯之町で開業医として活躍。シーボルトの娘イネを養育した。
矢野 玄道
ヤノ ハルミチ
1823
~1887
国学者 喜多郡阿蔵村(現大洲市)生まれ。幕末に、国学の振興や王政復古運動に従事し、明治維新後は、政府に国家構想をまとめた意見書を提出。後に、皇典講究所の文学部長となった。
村田 蔵六
ムラタ ゾウロク
1825
~1869
蘭学者 軍政家 周防国吉敷郡鋳銭司村(現山口県)生まれ。宇和島藩主伊達宗城に招かれ、宇和島で7年間にわたり蘭学の指導・普及、軍艦・砲台の建造などに従事した。後の大村益次郎。
楠本 イネ
クスモト イネ
1827
~1903
日本人初の女医
(産科)
肥前国長崎(現長崎県)生まれ。シーボルトの娘で、二宮敬作に卯之町で養育される。石井宗謙に産科を学び、東京で開業。明治6年、宮内省御用係を拝命し、若宮誕生に携わった。
三瀬 諸淵
ミセ モロブチ
1839
~1877
蘭学者 大洲城下の中町(現大洲市)生まれ。二宮敬作に蘭方を学び、再来日したシーボルトの最後の弟子となった。イネの娘高子と結婚。大阪に医学校兼病院を開設し、後輩の育成にも当たった。
穂積 陳重
ホヅミ ノブシゲ
1855
~1926
民法学者 宇和島城下の中ノ町(現宇和島市)生まれ。帝国大学法科教授として東大法学部の基礎を確立した。我国最初の法学博士で、民法・戸籍法などを編纂し「明治民法生みの親」といわれた。
穂積 八束
ホヅミ ヤツカ
1860
~1912
憲法学者 宇和島中ノ町生まれ。東京帝国大学教授。明治法学界の重鎮となり、貴族院議員に勅撰され、宮中顧問官も務める。
西園寺 源透
サイオンジ ゲントウ
1864
~1947
郷土史研究家 宇和郡川内村(現宇和島市)生まれ。愛媛の政財界で活躍後、景浦稚桃らと「伊予史談会」を設立。郷土資料の収集整理や古文書の研究を行い、郷土史研究の先駆となった。
真鍋 嘉一郎
マナベ カイチロウ
1878
~1941
医学者 新居郡大町村(現西条市)生まれ。物療内科という新分野を開拓後、東京帝国大学医学部の教授として、内科物療法学の講座を開いた。夏目漱石等の著名人の主治医を務めた。
穂積 重遠
ホヅミ シゲトオ
1883
~1951
民法学者 東京府深川(現東京都)生まれ。東京帝国大学教授。家庭法の権威といわれ、法律の民衆化に努め、法文・判決文の口語化を提唱した。後に、最高裁判所判事も務めた。父は穂積陳重である。
大野 作太郎
オオノ サクタロウ
1886
~1968
教育者
地質学者
北宇和郡下鍵山村(鬼北町)生まれ。小学校勤務のかたわら南予の地質研究に取り組む。城川町魚成田穂(現西予市)でのアンモナイトの発見は、地質学上世界的な発見として注目を浴びた。
矢内原 忠雄
ヤナイハラ タダオ
1893
~1961
経済学者 越智郡富田村(現今治市)生まれ。戦前に東京帝国大学教授として植民地政策を批判し、軍部に弾圧され辞職に追い込まれた。戦後、復職し、昭和26年に東京大学の学長に就任した。
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